エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(父)
「ふぅ~っ・・・・。今日は光雲神社への出勤日。足腰が冷えるから、師走は朝が辛いのう。」
(子)
「しかし、父上・・・・。せっかく福岡の皆様が我等父子を西公園の光雲神社に祀ってくれているのです。寒さに愚痴を言わずにさっさと出発致しましょう。」
(又)
「これは珍しい・・・・。大殿が殿に諭されるとは・・・・。」
(多)
「全くだワイ。つくづく殿は立派になられた。最近では初代福岡藩主として、何かこう、貫禄が付いてこられたような・・・・。いやあ、大殿や又兵衛が歳をとるはずじゃワイ・・・・。」
(父・又)
「・・・・それはお互い様!」
(多)
「それにしても大殿は楽で良いではござらぬか?拙者と又兵衛がしっかり輿を担いでおります故・・・・。足腰が冷えるなどとは贅沢でござる」
(父)
「むむ?それにしても崇福寺(黒田家の墓所)から、光雲神社のある西公園まで遠いのう。ただ無駄話を続けても皆様に申し訳ない。長政が光雲神社の由来でもお聞かせしてはどうじゃな?」
(子)
「それは良いお考えで。では早速・・・・。そもそも光雲神社の起こりは黒田藩の藩祖である父上と、初代藩主である私を福岡城内に祀ったのが最初だと聞いておりまする。」
(多)
「何故それが西公園に移ったのでござる?」
(又)
「江戸時代の西公園は荒津山と呼ばれ、日光東照宮に因んで家康公を祀る東照宮があったそうでございます。まぁ、徳川家への忠節ぶりをアピールする為でしょうな。」
(子)
「ところが、明治維新で徳川幕府が倒れると、参拝客は絶えて荒津山は荒れ放題。そこで、廃藩置県で黒田家が福岡を離れる際に、父上と私を福岡城内から遷し、改めて荒津山に祀るように福岡の皆様が運動してくれたのです。」
(又)
「因みに光雲神社とは、大殿の称号『龍光院』の『光』、それと殿の称号『興雲院』の『雲』をそれぞれ組み合わせた名称ですぞ!」
(多)
「そうこう言っているうちに、着きましたワイ。」
* *
(子)
「おや?茶席の用意がしてあるぞ・・・・?」
(父)
「随分立派な道具じゃな。さてはワシが来るのを見越してわざわざ・・・・。いやあ、人気者は辛いのう。」
(多)
「炭火も起こしてある。こりゃ有難いでござるな。」
(又)
「しかし、茶を点ててくれる亭主がおりませぬぞ。」
(多)
「だれもおらぬのであれば、それがしが茶を点て申そう。一度茶席の亭主というのをやってみたかったのでござる。どれどれ湯も煮えたぎっておる・・・・。エイヤッ!これが大殿の分。これが殿の分。これが又兵衛の分」
(子)
「あっちぃ~!」
(父)
「ワシのは濃すぎて気分が悪くなりそうじゃ!誰か水を・・・・。」
(又)
「多兵衛殿、そもそも茶席では一人ずつ茶碗を回すものですぞ。」
(多)
「面目ない・・・・。」
(子)
「又兵衛よ、父上はお茶にうるさいお方。誰か名手を呼んできてくれ。そうでないと父上の機嫌が悪くなる。」
(又)
「心得ました!」
(父)
「頼むぞ!」
* *
(又)
「素晴らしい名手をお連れ致しました。博多を代表する豪商、今風に言うと大実業家にして茶人、即ちアーティストである島井宗室殿と神屋宗湛殿でございます。」
(CAST)
島井宗室・・・・1539~1615年。戦国~安土桃山時代の博多商人でも特に有名な『博多三商傑』の一人。茶人としても知られ、茶の湯を大成した千宗易(利休)とは茶人としても、同業者(貿易商)としても親交が深かった。豊後国(大分県)の戦国大名・大友義鎮(宗麟)と親しく交わり、義鎮の勢力拡大に伴って様々な営業特権を与えられた。九州を巡る三つ巴の決戦で義鎮が島津義久に敗れたことから脅威を感じ、織田信長、次いで豊臣秀吉と通じる。後に秀吉の天下統一・朝鮮出兵に協力し、文字通り『天下人の御用商人』となり、黒田長政の福岡城築城にも協力した。以下、(室)と表記。
神屋宗湛・・・・1551~1635年。安土桃山時代~江戸時代初期の博多商人。島井宗室と同じく『博多三商傑』の一人。中世博多商人の極盛期を開いた人物であり、島井宗室とは遠戚にあたるとも言われる。島井宗室と同じく茶人としても知られる。千宗易の先輩格にあたる堺の豪商・茶人である津田宗及と親交を結ぶ。博多商人の指導者的立場にあって、博多の復興・朝鮮征伐軍への補給等を取り仕切り、豊臣秀吉を支える側近の一人となる。以下(湛)と表記。因みに、ここでは宗湛は宗室を『叔父さん』と呼んでいる。
(室)
「これはこれは黒田様、お久しぶりでございます。」
(父)
「まったくじゃ。宗室殿も変わりなく。」
(子)
「宗湛殿も相変わらず商売繁盛で何よりだな。」
(湛)
「皆様のお陰でございます。」
(又)
「それで、先程お願いした件なのですが・・・・。」
(室)
「よろしい。私が皆様に茶を一服点てて進ぜましょう。宗湛も皆様とご一緒してはどうかな?」
(湛)
「はい、叔父さん。」
* *
(父・子・又)
「美味い。生き返るようだ!先程の茶とはまるで違う。」
(多)
「そうでござるか?それがしが点てた茶とあまり味は変わらぬような・・・・。」
(父・子・又)
「全然違う!」
(多)
「ぐすん・・・・。一生懸命やったのに・・・・。」
(室)
「これこれ、茶会は参加するものの精神のふれあいこそ肝要。味や作法も大切ですが、茶を点て
てくれた者への感謝も大事ですぞ!」
(父)
「そうじゃな。多兵衛よ、すまなかった・・・・。ところで、宗室殿達に頼みたいことがある。」
(湛)
「黒田様が私と叔父さんに頼みごと?はて、何でございましょう?」
(子)
「実は、此度のお役目で福岡の町を読者の皆様へご案内するのは今回でお休みし、次回以降は博
多の町を紹介せねばならないのだが、その大役を引受けてくれないだろうか?」
(室)
「そのような大役を我等に?」
(父)
「うむ。色々考えたのだが、福岡の町は長政をはじめとする黒田藩が中心になって築いた武家町。
しかし、博多は一にも二にも博多商人の町。付け焼刃の我等が紹介するよりも御両名の方が適
役では、と考えてな。」
(子)
「しかも、我が家中には多兵衛や又兵衛のような粗暴な者が多い。博多に残る貴重な工芸品や寺
社仏閣を案内中に万が一壊されては天下の損失。」
(又)
「粗暴という点では殿も我等と変わらぬような・・・・。」
(子)
「黙っとれ!」
(父)
「宗室殿と宗湛殿が案内役の方が皆様も喜ばれると思うのだが、どうであろう?」
(湛)
「黒田様もこう仰っているし、お引受けしましょう、叔父さん!」
(室)
「分かりました。その大役、お引受け致しましょう。」
(子)
「かたじけない。」
(父)
「宜しくお願いしますぞ。」
(又)
「おお、茶会の最中に雪が降り始めましたぞ。何と雅な!」
(父)
「本当じゃのう・・・・。」
(子)
「父上、次は梅の時期にでも再び茶会を催しましょう。」
(多)
「その時こそは、それがしが再び美味い茶を点て申そう。」
(一同)
「・・・・(当惑の表情)。」
[続く]
(子)
「父上、今日は中央区大名にある日本たばこ産業株式会社へ参りましょう。」
(父)
「長政よ、今ワシは小銭もタスポも持ち合わせておらぬし・・・・。第一、禁煙中じゃぞ・・・・。」
(子)
「父上のタバコを自販機に買いに行くのではありませんぞ・・・・。ある一廉の武将に縁のある場所を訪ねようとしておるのです。」
(父)
「何じゃ、改まった顔をして・・・・。しかし、その一廉の武将は日本たばこ産業株式会社の近くに居を構えるほどのヘビースモーカーなのか?困った奴じゃのう・・・・。」
(子)
「・・・・。父上、ここで問題でございます。隣国である肥後国(熊本県)の大名・加藤清正の家中において、我が黒田家の母里太兵衛・後藤又兵衛等に相当する重臣は誰でございましょう?」
(父)
「むむ?それはやはり、朝鮮での戦いで晋州城一番乗りを果たした『飯田覚兵衛』こと飯田直景であろうな。清正自身も優秀な武将だが、清正を支えた飯田覚兵衛もまた一廉の人物であったろうと思うぞ。先ほどの晋州城攻めでは我が家中の後藤又兵衛と一番乗りを争うほどの勇猛な人物であるし、熊本城は勿論、江戸城・名古屋城の築城にも参加し、清正同様に築城に明るい人物としても知られておるのじゃ。」
(子)
「さすがは父上。正解でございます。父上が仰るように、飯田覚兵衛は知勇兼備の名将であり、竹馬の友『森本儀太夫』と共に清正の両腕として知られております・・・・。実は、中央区大名の日本たばこ産業株式会社は飯田覚兵衛の屋敷跡なのです。」
(父)
「ほう・・・・。もともと、加藤清正・飯田覚兵衛・森本儀太夫の三名は主従関係というよりは幼馴染の間柄。幼少の頃、村相撲で勝った加藤清正に、負けた飯田覚兵衛・森本儀太夫両名が終生仕える約束をしていたそうじゃ。」
(子)
「随分お詳しいですな。」
(父)
「実は、故・司馬遼太郎の短編小説『覚兵衛物語』を読んだんじゃよ・・・・。」
(子)
「道理で・・・・。」
(父)
「この小説では本当は武士ではなく、歌人として風雅の道に憧れていた飯田覚兵衛が、幼時の契りに縛られて武士になったところ、人も羨むほどの予想外の成功を収めてしまい、不本意ながら家老として加藤家を支え続けたという筋書きになっている・・・・。」
(子)
「成程・・・・。」
(父)
「しかし、清正の死後、後を継いだ子の加藤忠広が余りにも愚かな主君であった為、『自分の人生とは何だったのだろう。清正との義理など捨てて歌人に成っておけば良かった。』と悔やみながら飯田覚兵衛は加藤家を去ったそうじゃ。」
(子)
「確かに・・・・。覚兵衛が加藤家を去るのと相前後して加藤家は取り潰しになっております。」
(父)
「結局は、『覚兵衛物語』にあるように飯田覚兵衛あっての加藤家であり、名将・加藤清正を世に演出したのは覚兵衛だったのじゃな。だからこそ、覚兵衛が去ると同時に加藤家は滅び去ったのであろう・・・・。しかし、何故清正の懐刀の屋敷が福岡にあるのじゃ?」
(子)
「はっ。飯田覚兵衛もまた、加藤家中の名士。その名は加藤家の外にも轟いておりました。当然ながら我が黒田家とも親交があり、加藤家を去った覚兵衛は当家の客分としてこの屋敷に滞留し、子孫は代々黒田家の家臣となったのでございます。」
(父)
「ほう・・・・。では、この大銀杏の樹はかつての飯田屋敷の名残という訳じゃな?」
(子)
「はい。この大銀杏の樹は覚兵衛が普請奉行、つまり工事監督者となった熊本城(別名銀杏城とも)から飯田屋敷に移植され、その後は福岡市の手で大切に保護されておりまする。かつて、同じ明治通り沿いには、現在の天神センタービルの場所に、以前紹介した母里太兵衛の屋敷もありまして、戦国の豪傑達の屋敷跡が揃っております。」
(父)
「それは面白い・・・・。しかし・・・・。」
(子)
「何でございます?」
(父)
「加藤清正ほどの武将が起こした家でも、二代目が頼りなければアッという間に滅んでしまう・・・・。」
(子)
「???」
(父)
「そうなると、我が黒田家の二代目のことが心配なんじゃよ・・・・。」
(子)
「父上。皆様の前でその手のネタはいい加減に止めて頂けませんでしょうか?この長政も人並み以上に傷つき易い繊細な心の持ち主なのでございますが・・・・。」
(父)
「・・・・。」
[続く]
(又)
「殿、今日は私にとって最後の戦いとなった『大坂夏の陣』の話をいたしましょう。」
(子)
「うむ、楽しみにしておったのだ。是非聞かせてくれ。」
(又)
「前回、『大坂冬の陣』の講和条件が『大坂城の堀を埋める』ことであったのは、お話しました。」
(子)
「いかに巨大な人工物とはいえ、講和条件に上がるとは大坂城の堀はそれ程厄介なものだったのか?」
(又)
「はっ。大坂城はもともと浄土真宗の総本山・石山本願寺の跡地に築かれました。」
(子)
「浄土真宗は戦国時代には一向宗とも呼ばれ、信徒達が起こした軍事行動・一向一揆は織田信長公と衝突して幾度も苦杯を舐めさせた。」
(又)
「左様でございます。一向一揆の軍事拠点でもあった石山本願寺は、淀川をはじめとする要害に囲まれ守り易く攻め難い地形でした。」
(子)
「そうだな。結局信長公は10年かかっても石山本願寺を攻め落とすことが出来ず、最終的には講和、つまり平和条約を結んで浄土真宗側が石山を退去することになった訳だ。そして、本能寺の変後に天下人になられた豊臣秀吉公は、石山の軍事上・交通上の立地に目を付け、壮大にして堅固な大坂城を築かれた・・・・。」
(又)
「秀吉公は大坂城の防備を一層固め、天守閣をはじめとする大小多数の櫓、内堀・外堀・空堀を本丸・二の丸・三の丸の外周に設けられました。最近の発掘では、堀の底をジグザグ模様に区切り、堀の底を徒歩では接近出来ないような遺構も見つかっておりまする。」
(子)
「なるほど。徳川軍の兵士が泥水に濡れる覚悟で堀の底を忍び寄っても、ジグザグ状に構築された障害物に足を取られ、立ち往生しているところを豊臣軍に撃たれる訳だ。」
(又)
「しかも、前回お話した真田丸の様な応急の砦が増設されており、『大坂冬の陣』において、徳川軍は兵力の差を十分に生かし切れなかったのでございます。」
(子)
「一度に大軍で襲い掛かっても、侵入路が限られている為に撃退されてしまう訳だ・・・・。」
(又)
「大坂城の堀がいかに重要であったかは、秀吉公が生前に『唯一の大坂城攻略法は、謀略で堀を埋めてしまい、裸城にしてしまうことだ』と、仰ったことからもうかがえます。」
(子)
「家康公はそのことをしっかり覚えておられた訳だ。なにせ、大坂冬の陣終了後に江戸へ戻られる際、『堀を埋める際には3歳の子供でも渡れる状態にせよ』と堀の埋め立てを念押しした位だからな・・・・。」
(又)
「皮肉にも、豊臣方上層部は堀の埋め立てをあっさり受け入れてしまったのですが、家康公が埋め立て作業を、わざわざ腹心の本多正純等に監督させ、埋め立て方法も周囲の建物を崩して廃材まで投げ入れる等の強引な方法をとっていることから、私や真田信繁はこれが家康公の謀略だと見抜きました。」
(子)
「家康公は、大坂冬の陣が終わった時から、御自身の存命中に豊臣家を滅ぼす執念だったのだな・・・・。」
(又)
「はい。1615年4月、危機感を募らせた豊臣家の将士は、埋められた堀の一部を掘り返すと共に、『大坂冬の陣』の発端となった方広寺から建築資材を運び入れて城壁・バリケードを増築し始めました。そして、家康公からの浪人衆召し放ち(傭兵の解雇)要求を豊臣方は最終的に拒否。決戦の機運は高まりました・・・・。」
(子)
「機先を制した豊臣軍が積極攻勢に出たのだな?」
(又)
「大野治房隊が4月26日に大和国・郡山城(奈良県)、4月28日には堺の街を攻撃することで戦端は開かれました。私は、河内平野で徳川軍の先方を迎え撃つことを秀頼公に進言しました。徳川軍が京都方面・奈良方面の2方から街道筋に大坂城へ向うであろうことは明らかであり、2方面から進んできた徳川軍の合流を阻めば、その進撃を遅らせ、あわよくば大打撃を与えることが出来ると考えたからでした。」
(子)
「豊臣軍の配置は?」
(又)
「七手組の内、長宗我部盛親・木村重成隊の兵力1万を京都方面へ、奈良方面には私の直卒する2800名を含む6500の兵力を先鋒とし、後続部隊が真田信繁・明石全登隊1万2000。先鋒を任された私は徳川軍の合流予想地点である道明寺(大阪府藤井寺市)に陣取ることにしました。」
(子)
「徳川軍には、あの伊達政宗が加わっていたんだな?」
(又)
「私の生涯最後の戦いで、まさか独眼龍・政宗殿と戦うことになるとは思いませんでした・・・・。奈良方面の総大将は、家康公の六男・松平忠輝様。これを補佐する形で舅(松平忠輝の妻の父)の伊達政宗殿が加わり、先鋒の大将は水野勝成で、他に松倉重政・奥田忠次が加わっておりました。」
(子)
「道明寺にはいつ着いたのだ?」
(又)
「5月6日の夜明け前には到着、我隊は付近の小高い丘・小松山に布陣しました。既に徳川軍の先鋒である水野・奥田・松倉の各隊が接近していたことから、私は先に攻撃を仕掛けました・・・・。」
(子)
「奈良方面の徳川軍は3万名以上の大兵力。味方の後続部隊1万2000は勿論、先鋒部隊も半数が到着していない状態だったのに、10倍以上の兵力差があってよく仕掛ける気になったな・・・・。朝鮮半島での虎退治と一緒で血気に逸ったのか?ふふ・・・・。」
(又)
「ハハハッ。殿、それを言うなら独眼・『龍』退治でございますぞ(笑)!正直、味方の到着が大幅に遅れているのを見て、私は最早勝ち目がないことを悟っていました。ですから、せめて伊達勢をはじめとする徳川軍を足止めして味方の為に時間を稼ぎたかったのです・・・・。」
(子)
「又兵衛の戦いぶりは聞いているぞ。奥田忠次を討ち取り、松倉重政隊を撃破したそうではないか?やはり又兵衛は強いな。」
(又)
「申し訳ございません。結果的に殿の敵方に回ってしまいながら、お褒め頂けるとは思いませんでした・・・・。その後も水野勝成隊や伊達家の片倉重綱隊を撃退した私ですが、徳川軍の本隊である伊達政宗隊が到着すると、流石の私も覚悟を決めねばなりませんでした・・・・。8時間にも及ぶ激闘で、私の部下達は多くが傷つき、味方は先鋒部隊・後続部隊共に来てくれません・・・・。正午頃、遂に銃弾で打ち抜かれて立てなくなった私は、この世で殿にお詫びをすることも出来ずに、部下に介錯させて自らの生涯と戦歴に終止符を打ちました・・・・。時を同じくして、京都方面の徳川軍を八尾・若江(いずれも大阪府東大阪市・八尾市)付近で迎え撃つ戦いでも、長宗我部盛親隊が藤堂高虎隊に大打撃を与えたものの、木村重成がやはり戦死し、夏の陣では連戦連勝だった長宗我部盛親も手持ちの兵力が尽きて孤立し、敗走中に戦死してしまいました・・・・。七手組の内、三手が欠けてしまい、豊臣家は大坂城周辺に追い詰められた訳です。」
(子)
「だが、翌5月7日毛利勝永・真田信繁・大野治房・明石全登の各隊を中心に豊臣家は最後の決戦を挑んだ・・・・。又兵衛や木村重成の仇を討つかのように彼等の戦いぶりは凄まじく、毛利勝永は家康公が直接指揮を執る天王寺口(大阪市阿倍野区付近)の先鋒・本多忠朝を討ち取り、真田信繁は家康公の本陣へ三度も突入し、身辺近くまで真田隊に接近された家康公は死を覚悟したそうだ・・・・。大野治房も岡山口(大阪市平野区付近)の総大将・徳川秀忠公の本陣に突撃を敢行し、徳川軍先鋒・土井利勝隊を突破する勢いだったそうだ。」
(又)
「しかし、結局は多勢に無勢・・・・。前日の長宗我部盛親と同様、後続の兵力が続かずに真田信繁が戦死。明石全登は行方不明。大野治房と毛利勝永は大坂城内へ撤退しました。」
(子)
「遂に豊臣家の命運も尽きた訳か・・・・。」
(又)
「はい。その日の夜、大坂城が炎上し、豊臣秀頼公と淀殿は翌5月8日に自害。大野治長・毛利勝永も追い腹を切りました・・・・。大野治房は秀頼公の一子・豊臣国松君を連れて豊臣家の再興を図りますが、結局捕えられて僅か8歳の国松君共々処刑されました。こうして、多くの血が流れて豊臣家は滅び、そして永く続いた戦国の世は終わりを迎えたのでございます・・・・。」
(子)
「七手組の諸将は皆、見事な最期を遂げたのだな・・・・。しかし、又兵衛に独眼龍と互角の兵力があれば、きっと独眼龍の方が退治されたであろうな。ハッハッハッ!オレ様は又兵衛の大坂の陣での戦いぶりを元主君として誇りに思うぞ!後藤又兵衛という漢(おとこ)を輩出したことを福岡の人々が誇りに思ってくれるように、薩摩藩主・島津家久が真田信繁を称えたこの言葉を改めて贈ろう!」
(又)
「・・・?」
(子)
「後藤又兵衛日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由!」
[続く]
(父)
「長政よ。現在の福岡市中央区に『警固』の地名という地名があるようじゃが?」
(子)
「はい、父上。同じ中央区の警固神社に由来する地名でございます。」
(父)
「警固神社とは、何だか守りが堅そうな名前じゃのう。」
(子)
「左様ですな。ときに父上は鴻臚館をご存知でございますか?」
(父)
「父に向かって何と陳腐な質問じゃ!それ位ワシが知らぬと思って馬鹿にしておるのか?」
(子)
「ひぇー、お許し下さい!父上、どう、どう。」
(父)
「ワシは暴れ馬か!まぁ、良い。鴻臚館とは、かつての平和台球場跡地、つまりは長政が築いた福岡城と同じ場所じゃが・・・・そこから発掘された古代の外交迎賓館・貿易施設のことであろう?」
(子)
「その通りでございます。勿論、父上も全てご存知のことと思いますが、ここは改めて皆様の為にご説明申し上げまする。そもそも古代の九州には、九州全体を統治する巨大省庁、大宰府政庁が設置されておりました。現在、福岡県太宰府市の太宰府天満宮近くにある大宰府政庁跡はまさにその遺構でございます。」
(父)
「うむ、古代の大宰府は小さな政府のようなもの。税の徴収や裁判権、役人の人事権まで管轄する巨大省庁じゃな。そして、当然外交・貿易についても担当していた。大宰府の監督の下、外交・貿易を担う役所が鴻臚館という訳じゃ。」
(子)
「左様。では父上、ここで問題でございます。我等、政治を行う者にとって、外交と表裏一体の権能とは何でございましょう?」
(父)
「またまたつまらぬ問答を出しおって!外交と表裏一体の権能とは、即ち国防であろう?国防、つまり国を護る力無ければ外交は機能せず、逆に外交が国防に繋がることもあまたある・・・・。まぁ、外交と国防が表裏一体と考えるのはワシが生来武家の者だからかも知れぬがのう。」
(子)
「誠にその通りでございます。大宰府が九州の州政府であれば、また然り。そこで、外交を司る役所である鴻臚館に対して、国防を司る対の役所として設置されたのが警固所でございます。」
(父)
「ふむ、なるほど・・・・。それで、警固という守りの堅そうな名称であったか・・・・。では、外交の鴻臚館と対となる役所であれば、警固所も鴻臚館と同じ場所にあったという訳じゃな?」
(子)
「はい。ですが、国防という重責を担っていた警固所も、交易の拠点が博多へと、国防力の中心が武士へとそれぞれ移っていくに従って廃れてしまい、私が福岡城を築く頃には、警固所跡地の名残として警固神社が残っているだけという状態でございました。」
(父)
「現在の警固神社に設置されている由来の石碑を読むと、太古の昔に朝鮮半島の新羅国と我国が争った際に、我国の勝利を呼び起こした瑞祥(めでたい兆し)を祀ってあるそうな。」
(子)
「そうでございます。ですから、私が築城を始めた頃の警固神社は、国防の役目を全うし終え、その魂のみが社として息づいている状態だったのです。そこで、現在の地に警固神社をお遷しすることにし、以後警固神社の周辺も警固と呼ばれるようになったのでございます。」
(父)
「そういえば、株式会社えんの面々も警固神社を手厚く信仰し、年始の挨拶には毎年社員総出で詣でるそうな。まさに地域の信仰が息づいた神社よのう。」
(子)
「左様でございますな。外交と国防を担う為に設置された警固所から、地域の信仰を受ける警固神社へ・・・・。警固という名前は実に不思議な由来がございますな・・・・。やや、父上!警固の地に建つ守りの堅そうな緑色の砦がございますぞ!」
(父)
「長政よ、そのようなことも知らぬのか?あれこそは女性一人でも安心して暮らせる程守りが堅く、砦よりも快適な新しき時代の城、その名もエンクレスト警固じゃ。良く覚えておくが良いぞ!」
(子)
「ははっ!長政しかと覚えましたぞ。ご覧の皆様もこの機会に是非覚えて下され!」
[続く]
(子)
「又兵衛よ、先日の約束どおり、今日は大坂の陣の話を聞かせてくれ。」
(又)
「では、皆様も良くご存知の関ヶ原の戦いの直後から始めましょう。『征夷大将軍』に任じられた徳川家康公ですが、唯一の心配事は自身の死後も、徳川幕府に諸大名が従ってくれるかということでございました。つまり、未だに徳川家の天下を認めぬ豊臣家と、豊臣恩顧(豊臣びいき)と呼ばれる加藤・福島・島津、そして我が黒田家等の西国の有力大名家が勢力を結集すれば徳川幕府の屋台骨は簡単に崩れてしまう恐れがあったのでございます。」
(子)
「しかも、家康公は当時70歳を過ぎ、豊臣秀頼公は20歳そこそこ。年齢による焦りもあった訳だ。」
(又)
「当時、『御所柿は一人熟して落ちにけり 木下に居て拾う秀頼』という有名な落首が流行りました。上手い歌ですな。将軍を譲って大御所となった家康公が亡くなれば秀頼公の天下となる、という意味ですが、秀吉公・秀頼公の若き日の名前である『木下藤吉郎』『拾』まで上手く詠んでありますな・・・・。ま、家康公が亡くなれば再び豊臣家の時代になると考える者も少なくなかった訳で、豊臣家、特に秀頼公の生母・淀殿はあくまで強気の姿勢を崩さず、家康公の高齢ゆえに決戦を焦る徳川家との間に緊張は高まりました。そして、豊臣家が再建中の方広寺大仏殿を巡って、徳川家にとって戦いの口実となるような事件が発生しました。」
(子)
「聞いているぞ。方広寺の鐘に刻まれた『国家安康』の文言は家康の名を二つに裂いて国を安らかにするという意味であり、『君臣豊楽』も豊臣を君主として楽しむという意味で徳川家への侮辱である、と徳川方がクレームをつけた訳だな?」
(又)
「左様。これに対して豊臣方は1614年冬、安芸国(広島県)の福島正則・薩摩国(鹿児島県)の島津家久等の西国有力大名へ豊臣家に味方するように檄文を送りましたが、残念ながら諸大名で豊臣家の求めに応じた者はおりませんでした。但し、秀吉公の莫大な遺産を使って集められた浪人の将士は、関ヶ原の戦いで領地を失った者を中心に約10万人にも達し、秀頼公の親衛隊である『七手組』の大将に私・真田信繁・長宗我部盛親・明石全登・毛利勝永・大野治房・木村重成の7名が選ばれました。」
(子)
「『真田信繁』については、皆様は『真田幸村』の名前でご存知かも・・・。しかし、それは後世に誤って知れ渡った名前で、真田家はもともと武田信玄公に仕えていた家柄。真田信繁の名前も武田信玄公の弟・『武田信繁』公に因んだものとか?」
(又)
「その通りです。しかも、真田勢はかつての武田精鋭部隊『赤備え』に因んで甲冑を真紅で統一しておりました。」
(子)
「かつて天下人・織田信長公を震え上がらせ、越後の龍・上杉謙信公と互角の戦いを繰り広げた甲州軍団・甲流兵学の継承者として真田信繁は戦いに望んだのかも知れぬな。」
(又)
「長宗我部盛親殿は戦国時代に四国全土を制圧し、『土佐の出来人』と呼ばれた長宗我部元親殿の後継で、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから、領国・土佐国(高知県)を没収されていました。その後は京都で寺子屋の先生をしておりましたが、豊臣方からスカウトされるや否や、旧家臣団が勢揃いして大坂城に入城しておりましたぞ。」
(子)
「明石全登とは、やはり関ヶ原の戦いで流罪になった宇喜多秀家の家老で、有名なキリシタン武将だな。毛利勝永はオレ様が豊前国中津城主だったときに、隣の豊前国小倉城主だった男・・・・。他の2名はあまり聞いたことがないな。豊臣家直系の人物か?」
(又)
「はい。大野治房は、豊臣軍総司令官であり淀殿の信任も厚い大野治長の弟。木村重成もやはり数少ない豊臣家生え抜きの家臣でした。そして、豊臣家の運命は我等7名の働きいかんに委ねられました。」
(子)
「逆に徳川軍は71歳の徳川家康公自らが総指揮を執り、諸国の大名に大坂攻めを指示なされた。その兵力は豊臣家に倍する20万人。でも、オレ様や福島正則は豊臣方への裏切りを警戒されて、江戸城に留まるように言われたんだぜ。失敬な!オレ様の父上がいくら腹黒いからって、オレ様まで一緒にするなってんだ!」
(又)
「ハハッ、最後の一言は大殿には内緒にしておきましょう。皆様もご内密に・・・・。そして、遂に『大坂冬の陣』が始まり、兵力で劣る豊臣軍では城を出て野戦に持ち込むか、堅固な大坂城に頼って籠城戦に持ち込むかで軍議がもめました。私や真田信繁殿は、城を出て徳川軍と一戦交えて大打撃を与える以外に豊臣家が生き残る道はないと主張しました。籠城戦というのは、所詮後詰めの援軍があって初めて戦い抜けるものですからな。かつて、難攻不落と云われた北条氏の小田原城が落城したのも、結局は助けに来る援軍が存在しなかったからなのです。大坂城も小田原城と同じ状態におかれていたのです。」
(子)
「そして、遂に徳川軍が大坂城に襲い掛かったわけだ・・・・。」
(又)
「左様、戦いのハイライトは真田信繁が大阪城南面に築いた砦『真田丸(真田の出丸とも)』でした。加賀の前田勢等、約2万数千の徳川方は真田信繁の挑発に乗って不用意に真田丸に攻め込みました。真田丸に取り付いた徳川方は、万全の準備で迎え撃つ真田隊から激しい銃撃を受け、主力の前田利常隊は大打撃を蒙る結果となりました。」
(子)
「負けず嫌いな又兵衛が真田信繁に出し抜かれた訳だ・・・・。クスクス。」
(又)
「ハハッ、それは違いますぞ。最初から私は大坂城の四方の中で南面が弱点になることを見抜いておりました。ところが、真田信繁もそのことに気付いていて、南面の守備を自分が引受けると言い出しました。しかし、私は大人・・・・。真田信繁に役目を譲り、そこに奴が真田丸を築いたわけです。私が指揮を執っていれば、前田勢は大打撃どころか全滅しておりましたぞ!」
(子)
「相変わらず、父上の長い々い自慢話に敵うのは又兵衛の大風呂敷だけだな・・・・。」
(又)
「・・・・真田隊は実に良く戦いました。奴の戦いぶりは、殿や私にも引けをとらぬ見事なものでした。しかし、孫子曰く『城を攻めるのは下手な戦、相手の心を攻めてこそ上手い戦』。相手の心を攻める戦においては、家康公の方が更に何枚も上手でございました。」
(子)
「家康公の巻き返しが始まった訳だ。」
(又)
「家康公は、軽率な攻撃を控えるように全軍に指示する一方、オランダ等から輸入した大砲を大量投入して大坂城本丸に容赦ない砲撃を加えて城方を精神的に追い詰めました。実際に淀殿の御座所付近に砲弾が落下して侍女数名が即死したことから、豊臣軍、特に事実上の大将である淀殿の戦意は急速に衰えていきました。」
(子)
「冬の戦が長引いたことで、攻める徳川軍は食料不足と寒気に悩まされ、守る豊臣軍も弾薬不足に悩まされるようになった。そこで、家康公は一計を案じて豊臣家との和平交渉を命じられた訳だ。」
(又)
「左様でございます。徳川方が提示した和平の条件は唯一つのみ・・・・。それが、『大阪城の堀を埋めること』であり、豊臣方はこれを受け入れたのでございました。しかし、この一見寛大に見える和平条件こそが、家康公の老いによる焦りと執念から出た謀略だったのでございます。」
(子)
「次回は、いよいよ『大坂夏の陣』編だな。又兵衛よ、次回は家康公に『死』を覚悟させた程の豊臣家最後の奮戦ぶりをしかと聞かせてくれ・・・・。」
(又)
「はっ、心得ましたぞ!」
[続く]
(子)
「父上、今日はアクロス福岡の北側にある水鏡天満宮に参りましょう。」
(父)
「水鏡天満宮・・・・とな?」
(子)
「はっ。我等父子と同じく国を背負って立った国士の足跡が残る場所でございますぞ!」
(父)
「うむ、ワシはともかく長政が国を背負って立つ程の男児かについては疑問じゃのう・・・・。たとえ息子の評価であっても、甘やかさぬのがワシのポリシーなのじゃ。」
(子)
「父上の子として生を受けて数十年、私は父上の愛情を感じたことがないような・・・・。」
(父)
「・・・・。」
(子)
「まあ、それは良いとして。ここで質問でございます。父上が推す平安時代最高の政治家とはどなたでございましょう?」
(父)
「うむむ。それはズバリ通称六波羅入道、太政大臣『平清盛』公であろうな。別にワシが『永遠の文学少年』で『平家物語』の大ファンだからという訳ではないぞ。清盛公が現実を見据えたリーダーとしての資質に富み、日宋貿易に見られるような優れた経済観念を持っていたことに敬服しているのじゃ。西国を拠点に文化と商業を振興させた清盛公は長政にとっても立派なお手本になるはずじゃ。それにな、ワシは平家の人々の生き方が好きなんじゃよ。」
(子)
「左様ですな。しかし、父上は『文学少年』というよりも『文学中年』か『文学晩年』かと・・・・。」
(父)
「何じゃと!」
(子)
「も、申し訳ございません。しかし、私も平家の人々の生き様に共感しておりますぞ。幼い安徳天皇を『波の下にも都がございます』と慰めて共に壇ノ浦の海に飛び込んだ平時子様(通称二位の尼、平清盛夫人)、滅び行く平家を最後までまとめ続けた知勇兼備の名将・平知盛公(平清盛の四男)、優れた武勇を誇り、敵方である源頼朝公でさえも助命を望んだ平重衡公(平清盛の五男)・・・・。」
(父)
「それらの人々が仲間割れせずに、滅亡の瞬間まで平家の繁栄と存続の為に心を一つにしていたこと自体が素晴らしいとワシは思うぞ。源頼朝公も立派な方だとは思うが、源氏のように子が父を斬り、兄が弟を殺すような行為だけは受け入れたくないものよ。」
(子)
「確かに。では、父上が考える平安時代最高の文化人は?」
(父)
「でへへ・・・・。清少納言や紫式部かのう。ワシは生まれつきのインテリ故、幾つになってもそういう知的な女子に弱いんじゃよ・・・・。で、ワシは水鏡天満宮で清盛公と今後の東アジア戦略について会談を開くか?それとも、清少納言殿や紫式部殿達と連歌の会でも催したら良いかのう?」
(子)
「父上がさほどに想像力豊かとは存じませんでした・・・・。残念ながら、いずれも違いまする・・・・。」
(父)
「ガーン・・・・。」
(子)
「この長政が推す平安時代最大の政治家・文化人とは菅原道真公でござります。」
(父)
「ほう?」
(子)
「天満宮とは、そもそも天神様を祭った神社のことで、福岡市中央区天神の由来もこの水鏡天満宮に因んでおります。」
(父)
「長政よ、今日はよく勉強しておるのう。ついでにいうと、天神様とは雷神様のことじゃ。」
(子)
「太宰府天満宮も雷神、即ち菅原道真公に由来する神社でございますが、水鏡天満宮もまた菅原道真公に因んでおりまする。道真公のプロフィールについては、父上の方が詳しいかと・・・・。」
(父)
「うむ。道真公は代々学者の家に生まれ宇多天皇の信任を得て右大臣にまで昇進された。左大臣・右大臣は現在の宰相(首相)クラスであるから、大変な出世じゃのう。政治上の功績としては、当時の正式な歴史書である『日本三代実録』の編纂を行った他、中国大陸の唐帝国が衰退していることから『遣唐使』派遣の中止を提唱したのも道真公じゃ。しかし、基本的には天皇の権限を強化する思想の道真公は藤原時平等の有力貴族の反発を買い、謀反を企てた罪を着せられて大宰府の長官代理に左遷され、同地で亡くなられた。その後、ライバル藤原時平や皇太子が相次いで病死し、天皇が政務を行う清涼殿が落雷を受けたことから、道真公は雷神であるとされ、その怨念を鎮める為に九州・太宰府天満宮をはじめとする各地の天満宮で祭られることとなった。後世の人々は道真公が優れた学者であったところから、天満宮は学問の神様として崇敬されるようになった・・・と、まあこんなところかのう。」
(子)
「さすがは父上。この水鏡天満宮は、大宰府へ向かう道真公が福岡市中央区今泉の地で水鏡(水面に自らの姿を映す)し、憔悴した自らの姿を嘆いたことに因んで元々は今泉の地にございました。それを私が現在の地に移したのでございます。」
(父)
「優秀な人材は常に妬まれ、反発の対象になるものよ。国家を担う宰相となれば、周囲の妬みやなお同じ優秀な人材として、ワシは道真公の末路に深く同情するものがあるぞ・・・・。」
(子)
「また始まった・・・・。しかし、父上。道真公がこの福岡の地に足跡を残されたことで、福岡の人々が学問を愛し、この地より優秀な人材を輩出することが出来れば、長政にとってはそれ以上にありがたいことはございませんぞ。」
(父)
「長政よ・・・・。ワシほどではないにしても、そなたも弁舌の腕が立つようになったのう。少々驚いたぞ・・・・。」
(子)
「ハハッ。ありがとうございます。さあ、折角ですから、お参りを致しましょう。」
(父)
「うむ、そうじゃのう・・・・。やや?この見事な額の文字は?」
(子)
「実に達筆でございましょう?何を隠そう、この額の文字は1936年に第32代内閣総理大臣に就任した廣田弘毅の筆になるものです。初めての福岡出身の内閣総理大臣であり、明治〜昭和期を通じて唯一の福岡出身の首相です。」
(父)
「なるほど。彼もまた、国家を担う宰相であったのじゃな。それにしても、水鏡天満宮のように歴代の宰相の魂がこもった神社も珍しいのう。」
(子)
「はい。廣田弘毅は外交官出身であり、戦争の気配が色濃くなってきた時期に首相になりましが、予算等の面で軍部の主張を受け入れねばならない等、政情は安定せず、1年足らずで首相を退くことになりました。その後も外相等として活躍しましたが、結果的に我国は米国等の連合国との戦いに敗れ、廣田自身も戦争犯罪人として逮捕されてしまいました。彼は法廷で一言も自己弁護を行わず、軍人ではない文官としては唯一A級戦犯として処刑されました。」
(父)
「潔いが、実に気の毒じゃのう。」
(子)
「全くでございます。廣田弘毅の妻は、夫の助命を願って自殺し、全国で数十万人が減刑の署名を行ったそうです。非常に難しい問題でございますが、戦後永く首相を務めた吉田茂とは大の親友であり、廣田の首相就任を説得したのが吉田茂であったことを考えると、矛盾を感じまするなあ・・・・。」
(父)
「道真公と廣田弘毅・・・・。今日は二人の宰相の生き様に触れることが出来たが、不遇な御両名に対して我等が報いてやれることが一つあるぞ・・・・。」
(子)
「何でございましょう?」
(父)
「福岡の歴史について案内し、より福岡の名前を世に広めることじゃ。」
(子)
「全くそのとおりでございますな・・・・。明日からも頑張りましょうぞ!」
(父)
「それにしても・・・・。」
(子)
「???」
(父)
「ワシも長政をもっと天満宮に連れて行っておけば良かったわい。」
(子)
「それはどういう意味で・・・・?」
[続く]
(子)
「太兵衛のヤツもあんなところで父上に余計なことを・・・・。」
(??)
「何を落ち込まれているのです・・・・?」
(子)
「何者だ?」
(??)
「殿、私を覚えておいでですかな?」
(GUEST)
後藤又兵衛・・・・1560~1615年。安土桃山時代~江戸時代初期の武将。黒田八虎の一人。「又兵衛」は通称で、正式には「後藤基次」。黒田官兵衛・長政父子には播磨国時代から仕える。特に黒田長政とは兄弟同然に育てられたと伝えられ、共に武勇に秀でた長政・又兵衛のコンビは九州平定戦・朝鮮半島侵攻・関ヶ原の戦い等の戦場を疾駆し、筑前国黒田家52万石の基礎を築いたといえる。しかし、日増しに高まる又兵衛の武勇と名声、更には主君長政に対しても歯に衣着せず直言する態度が原因で長政との間には次第に亀裂が生じてしまう。後藤又兵衛は最終的に黒田家を去り、大坂城の豊臣秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死してしまうが、黒田家の武将を語る際には母里太兵衛と並んで欠かせぬ人物である。以下、(又)と表記。
(子)
「皆様、この者は後藤又兵衛と申しまして、我が黒田家の精鋭・黒田八虎の一人でありながら黒田家を勝手に去り、豊前国・細川家、播磨国・池田家へと次々に身を寄せ、最後には大坂の陣で豊臣方に付いてしまった不忠者なのです。・・・・いっそこのまま斬り捨ててくれるわ!」
(又)
「はは、相変わらず殿は気が短い・・・・。しかし、今日の私は、殿が福岡の町の案内役を仰せつかったとお聞きし、殿の応援にやって参ったのでございますぞ。」
(子)
「・・・・?それならば、お役目の手前、仕方あるまい。しかし、その前に聞いておかねばならないことがあるぞ!」
(又)
「何でございます?」
(子)
「何故黒田家を去ったのだ?」
(又)
「ハハッ。私への殿の仕打ちが酷かったからです。些細な不手際を理由に我が長男を改易(解雇)し、三男には猿楽の伴奏役という武士としては不名誉な役目を命じられる。朝鮮半島の戦においては、馬小屋に入り込んだ虎を単身で斬り倒した私に、『一軍の将のすることではない』と叱って皆の前で笑いものにする・・・・。」
(子)
「だまれ!又兵衛もオレが朝鮮軍の大将との一騎討ちで負けそうになった時に助けてくれなかったし、関ヶ原の戦いの先陣争いでは、せっかく敵軍を発見したのに又兵衛が『あれは雑兵』とウソをついたせいで先を越されたんだぞ!」
(??)
「これこれ、長政。あまり熱くなるでない。又兵衛も言いたいことがあるなら、あまり長政を怒らせるな。」
(子・又)
「父上?」「大殿?」
(父)
「長政よ。今回はワシから問題じゃ。長政が又兵衛に守らせていた益富城と国境を接していた大名は誰かのう?黒田家を離れた又兵衛が真っ先に頼った大名は誰かのう?『大名が国替えする際には、その年の年貢は新領主に残していく』という慣例を我が黒田家が破った為に長政を恨んでいる大名は誰かのう?」
(子)
「細川忠興でございますか?」
(父)
「そうじゃ。戦国の慣わしでは、隣国の大名との交渉は国境を守る城の大将の役目のはず。長政と細川忠興の板ばさみで、又兵衛は相当辛かったはずじゃぞ。」
(子)
「しかし、ならば細川家との勝手な交流を禁止するという主君の命令に従えば良いだけのこと。何の問題もございますまい。」
(又)
「・・・・。」
(父)
「そこよ。国境を守る城の大将が他国との外交を取り仕切る戦国時代から、大名の一元的な外交管理を行う平和な時代へと大きくシフトしたのじゃ。それは、『高い役職と広い領地を与えられた大身の家臣が大名家を支える時代』から、『主君の一元的な指揮の下に行政に秀でた官僚が大名家を支える時代』への変化といっても良い。その一方で又兵衛は確かに黒田家の家臣ではあるが、関ヶ原の戦いでは居並ぶ大名衆を前に発言出来る程の名士なのじゃ。又兵衛自身の家来衆も抱えており、その点は普通の大名と変わらぬ。」
(子)
「・・・・。」
(父)
「そんな名士が今更一官僚として生きていくのは決して楽ではない。要は黒田家が大きくなるに従って、又兵衛の存在も大きくなり過ぎ、又兵衛自身がいち早くそのことに気付いておったのじゃ。長政への恨みが鬱積していたのであれば、又兵衛は益富城に立て籠もって一戦挑んでおるわ。でも、そうはしなかった。自身の存在が大切な相手を苦しめる、或いは成長を邪魔している・・・・。人にとってこれ程辛いことはないぞ。そして、又兵衛にとって大切な相手とは主君である長政だったのじゃ・・・・。」
(又)
「流石は大殿。恐れ入りました・・・・。その通りでございます。」
(子)
「私は又兵衛のことを恨んで刺客まで放ってしまいました。又兵衛、本当にすまぬ・・・・。うう・・・・。」
(父)
「じゃが、又兵衛ももっと素直になるべきであったと思うぞ。実はのう、又兵衛を召抱える際にワシは随分悩んだのじゃ。後藤家の一族には、昔ワシを地下牢に閉じ込めた荒木村重に仕えていた者もいたし・・・・。しかし、その時この長政が又兵衛を是非召抱えてくれと泣きついたのじゃ。その言葉通り、長政は又兵衛を頼りとしつつも自分自身を磨き、少しでも又兵衛の主君として相応しい人物になろうと人知れず努力したはずじゃ。」
(又)
「殿・・・・。申し訳ございませんでした・・・・。」
(父)
「又兵衛よ、今回の我等のお役目はまだまだ続く・・・・。次は大坂の陣の話でもしてくれぬか?そなた程、あの戦を間近で見たものはおらぬはずゆえ。」
(又)
「承知致しました。」
(子)
「きっとだぞ・・・・。」
[続く]
(父)
「長政は逃げ出してしまったし、今回は太兵衛に案内を頼むかのう?」
(太)
「承知致しましたぞ。ガハハッ。」
(父)
「こうして歩いてみると、長政が自慢しておったように、福岡城は広いのう。」
(太)
「左様でござるな。例えば、向こうに見えている『大手門交差点』から城内中枢の本丸天守閣予定地(!)まで直線距離で約500メートルはござろう。」
(父)
「天守閣予定地・・・・。グスン!やっぱり福岡城も天守閣が欲しいよ〜!」
(太)
「・・・・大殿、天守閣の話は先程若殿との間で済みもうしたぞ!今さら赤児の様に駄々をこねても仕方ござるまい。」
(父)
「そうじゃの・・・・。普段冷静沈着なこのワシが単純で短気な太兵衛からなだめられるようでは本末転倒じゃ。」
(太)
「・・・・。拙者が単純で短気かどうかは別にして・・・・。その通りでござる。大殿、福岡城には天守閣こそござらぬが、城の遺構が由来となっている地名は幾つもございますぞ。例えば先程の『大手門交差点』は交差点脇にある『下之橋大手門』、つまり城内への正門の一つに因んだ名称でござる。かつての城の正門・メインストリートの遺構であればこそ、あれ程大きな道幅なのでござるな・・・・。因みに、『下之橋大手門』は平成12年に火災に遭ってしまい、現在のものは後に再建されたものでござる。」
(父)
「なるほど・・・・。それにしても見事に復元されておるな。」
(太)
「それだけではござらぬ。『下之橋大手門』以外にも『エンクレスト大手門』『エンクレスト大手門2』と城の『大手門』に因んだ建物が近隣にござる。他にも福岡市中央区の『城内』『赤坂門』『黒門』等はいずれも福岡城に因んだ地名でござる。」
(父)
「うむ、奈良や京都のように国宝級の歴史的な神社仏閣が密集しておるのも良いが、地名や遺構として歴史の香がほのかに残っている感覚というのも、堅苦しくなくて良いのう。仕事をしながら、あるいは散歩をしながら、気軽にあるがままの歴史の流れを感じる・・・・というのは福岡ならではの歴史の楽しみ方なのかも知れぬな。」
(太)
「福岡城はその姿から別名、舞鶴城とも呼び申す。周囲の『舞鶴』という地名や、『舞鶴中学校』の名称等はいずれも舞鶴城の別名から来たものとか。東西に広がる福岡城は、まさに博多湾に向かって翼を羽ばたかせて舞う鶴の姿そのものでござるな・・・・。」
(父)
「太兵衛は武骨者と思っておったが、なかなかのロマンチストよのう。やや?もう一羽、福岡城の対と思しき鶴が現れたぞ?・・・・。」
(太)
「あれこそが同じ舞鶴でも『エンクレスト舞鶴』でござる!」
[続く]
(父)
「長政よ、太兵衛が戻るまでに、黒田節の話でも皆様にして差上げてはどうかの?」
(子)
「なるほど、良いお考えでございますな。では早速、
はぁ〜
酒は飲め飲め
飲むならば
日の本一の此の槍を
飲みとる程に
飲むならば
これぞまことの黒田武士〜
と、如何でございます?私自身では、なかなか上手いと思うのですが?」
(父)
「長政は武道以外の才能が本当にないのう。親の顔が見たいわい。あ、ワシか?
冗談はさて置いて、
さぁ〜けぇ〜は〜のぉ〜めぇ!のぉ〜めぇ!
・・・・。」
(子)
「オエーッ、ちちうえ〜!もし音声がオンであったら、ご覧の皆様は失神してしまいする。どう聞いても、私の方がマシかと・・・・。」
(父)
「大きなお世話じゃ!」
(子)
「父子揃って、大変失礼致しました。だいぶ下手な唄で申し訳ございませんでしたが、今のは黒田節もしくは筑前今様と呼ばれる唄で、今の御世でも福岡・博多の祝言の席ではよく年配の方が唄われるそうでございます。」
(父)
「左様、多少聞き苦しかったかも知れぬが、この唄はもともと母里太兵衛をモデルにした唄だそうな。」
(子)
「確か、先程太兵衛が質入に持っていった名槍・日本号に関する逸話が歌詞になっておるそうで・・・・。」
(父)
「うむ、もともと日本号という槍は、『賤ヶ岳の七本槍』の一人で一緒に石田三成を襲撃した長政の『チンピラ仲間』福島正則が秀吉様から褒美として頂いた品じゃ。」
(子)
「以前、京都の伏見城に正則が滞在していた為、同じく京都に来ていた私が正則の許へ太兵衛を使いに遣ったのです。すると、酒豪の正則は太兵衛に酒をしつこく勧めた。太兵衛も我が黒田家中では酒豪として知られる者ですが、黒田家の家老としてやって来ている手前、断りました。まぁ、当然ですな。だが、それでも正則は『黒田武士は酒に弱い』等と太兵衛をしつこくカラかって飲ませようとした。」
(父)
「そして、『大杯に注いだ酒を飲み干したなら、何でも好きな褒美を与える』とまで言い出したそうじゃな。」
(子)
「はい。そして、そこまで言われた太兵衛は大杯に並々と注がれた酒をあれよあれよと飲み干し、『福島殿が秀吉様に頂いた名槍・日本号を頂戴したい』と申し出た。福島正則は不承不承、日本号を母里太兵衛に譲り渡したそうで・・・・。そして、冒頭の父上のヘタクソな黒田節の歌詞はこの福島正則との一件を表している訳ですな。太兵衛の銅像やイラストが全て名槍・日本号を右手に、大杯を左手に抱えた姿になっているのもそれに由来するそうで・・・・。いやあ、母里太兵衛は黒田家臣の鑑ですな。」
(父)
「とりあえず、ヘタクソなのは長政の方じゃ・・・・。それは別にして、誠に太兵衛は我が家中の鑑よのう。長政よ、ワシの死後も太兵衛を粗末に扱ってはならんぞ。」
(子)
「ドキッ・・・・。この長政、しかと心得ました・・・・。今の御世でも勿論太兵衛は人気者。福岡市中央区の『天神センタービル』はかつての母里家の屋敷跡でございますが、今では明治通り側に立派な石碑が建っておりまする。また、旧福岡城の敷地跡にある舞鶴中学校の入口には、その太兵衛の屋敷にあった長屋門が移設されておりまする。生徒達は、黒田武士の鑑から薫陶を受け、勉学に精進しておる訳でございます。実に結構でございますな〜。私も実に鼻が高い・・・・。」
(太)
「大殿に殿、お待たせし申した。島井宗室殿とすっかり長話になってしまい・・・・。ところで、誰の話をなさっておったので?」
(父)
「そなたのことよ。ワシが亡き後も、長政は太兵衛のことを大切に扱ったであろう?」
(太)
「うーん?ハッキリとは覚え申さんが、殿の長男、つまり大殿の孫である黒田忠之公に『殿以上の武勇に恵まれますように』といった意味のことを申し上げたら、『オレ以上の武勇とは何事だ!斬る!』と拙者に逆上なさいましてな〜。でも、周りの者が命乞いをしてくれたし、それがしもあまり物覚えが良い方ではないので、酒でも引っ掛けて忘れてしもうとりましたわい。ガハハハハッ!・・・・大殿?それがどうかなさいました?」
(父)
「う〜っ!わなわなわな・・・・。」
(子)
「・・・・。」
(父)
「長政ッ、お前はいつから親にウソをつくようになったのじゃ〜!こら、逃げるな!」
(子)
「父上〜またまたお許し下さ〜い!太兵衛もごめんよ〜!もう二度と言わないから!」
[続く]
(父)
「長政よ、加藤清正の熊本城が大々的に復元されるそうじゃぞ!」
(子)
「左様、城好きの間では現在注目の的だとか・・・・?」
(父)
「我等も清正めに遅れをとってはならぬぞ。早速皆様を福岡城に案内せぬか!」
(子)
「やれやれ、相変わらず父上は目立ちたがり屋・・・・もとい、負けず嫌いなお方でございますな?この長政の様に大きくお心をお持ち頂けませぬか?」
(父)
「残念ながら長政よ、皆様はそなたが喜怒哀楽の激しい短気な武将じゃと薄々ご存知じゃぞ・・・・。」
(子)
「うぐっ・・・・。私の心が大きいという前言は撤回を申し上げまする。では、気を取り直して・・・・。父上、そして皆様、これこそが福岡城でございますぞ!見てくだされ、この白亜の居城を!47の櫓を誇り、広さは25町歩・・・・。我が黒田家の居城にして、九州最大の巨城が遂に完成しましたぞ!」
(父)
「相変わらず長政は気が利かぬのう。25町歩と言っても各々方にはピンと来ぬであろう・・・・。25町歩とは、現在で言うところの概ね25ヘクタール位にあたるのじゃ。」
(子)
「いえいえ、今日の私は気が利いておりまする!父上は足がご不自由故、城内をご案内するのに輿をご用意致しましたぞ。」
(父)
「おお、輿を担いでおるのはもしや・・・・?母里太兵衛ではないか?」
(GUEST)
母里太兵衛・・・・1556〜1615年。安土桃山時代〜江戸時代初期の武将。「太兵衛」は通称で、正式には「母里友信」。槍術に秀でた勇猛な黒田家臣として知られ、後藤又兵衛らと並んで黒田八虎の一人に数えられる。名槍・日本号を右手に、大杯を左手に抱えた姿の銅像が博多駅前・福岡市西公園に存在し、同様の姿が博多人形やイラストのモデルにもなっている他、様々なエピソードを持つ黒田家のスター武将である。因みにこの場面では母里太兵衛ら家臣は、黒田父子をそれぞれ黒田官兵衛=「大殿」、黒田長政=「殿」と呼んでいる。以下、(太)と表記。
(太)
「これはこれは大殿、お久しゅうござる。この度は殿のお申し付けにより城内を大殿にご案内すべく参上し申したぞ。」
(父)
「そうか、では案内を頼むかのう。」
(子)
「はい、早速参りましょう。皆様もどうぞ。」
* *
(父)
「では、城の中枢である本丸から見て行くかのう。」
(子)
「はい、こちらが福岡城本丸の玄関である表御門でございます。」
(父)
「ふむ、そしてその奥にあるのが本丸御殿じゃな。外から見ると筑前国52万石に相応しい立派な造りじゃのう。実に惚れ々々するわい。今の御世に残っておらぬのが実に残念じゃのう。」
(太)
「大殿、立派なのは外観だけではござらぬ。本丸御殿の中には畳56枚敷きの大広間や仏間、台所に詰所等、城の中枢に必要な機能が全て揃ってござる。」
(子)
「本丸だけでも井戸が3本も掘ってあります故、万が一敵の大軍に取り囲まれても何ヶ月、いや何年でも持ち堪えられまする。」
(父)
「そうかそうか、それは頼もしいのう。ところで、この『御仙水』とは何じゃ?」
(太)
「我等黒田武士が戦場で倒した敵将の身元を確かめる、つまり首実検を行う大切な場所でござる。これさえあれば、我等黒田武士は明日戦が始まっても大丈夫というもの。それがしの如く手柄の多い者は、一度戦が行われると当分の間はここで自分が倒した相手の検分を行わなければなりますまい。ガハハハッ!」
(子)
「さて、本日は陽も暮れました故、最後に裏御門を通って引き上げましょうぞ。父上のお体に障りまする。」
(父)
「はて、もう帰るかの?しかし、何か大切な場所を見るのを忘れておるような・・・・。」
(子)
「明日は二ノ丸・三ノ丸をご案内致しまするが?」
(父)
「いやいや、そうではない。長政よ、ワシに何か隠しておらぬか?」
(子)
「ギクッ・・・・。い、いえ。決してその様なことはございません。」
(父)
「太兵衛よ、本当か?ワシの目を見て答えよ。」
(太)
「・・・・実は、福岡城には天守閣の石垣までは造り申したが、天守閣そのものについては殿の『政治的判断』ってヤツで結局建ててござらん。で、目立ちたがり屋の大殿にバレると怒られるから、天守台跡の石垣には絶対連れて行くな、と殿が・・・・。しかも、大殿を天守台に連れて行くなと言ったのは内緒だぞ、と殿が・・・・。」
(子)
「あ、太兵衛のばか!」
(太)
「殿、申し訳ござらん。結局全部喋ってしまいましたわい。拙者は正直者故、かようなウソはどうも苦手でござるな。ガハハハハッ!」
(父)
「こら、長政逃げるな!」
(子)
「だって、仙台の伊達政宗が『お互い、野心家として徳川幕府に睨まれてるんだから、この際天守閣はあきらめようぜ〜!オレも仙台城には天守閣は造んねーからさ』と言うもので、ついウンと言ってしまったのでございます〜。父上が熊本城をその様にライバル視されるとは思わなかったのでございまする〜。お許しくだされ〜。」
(父)
「もうよい、もうよい。立派な天守閣を建てて世間の耳目を集めた肥後国加藤家は、加藤清正の子の代で取り潰しになった・・・・。そして、天守閣を我慢した黒田家と伊達家は明治の御世まで続いた・・・・。結果的にそなた達の判断は正しかったのかも知れん・・・・。」
(子)
「では、許して下さるのですか?」
(父)
「そういうことならば仕方あるまい・・・・。しかし、しかしのう・・・・。わーん、やっぱり熊本城で注目される清正が羨ましいよ〜!やっぱり福岡城も天守閣が欲しいよ〜!」
(太)
「全く、大殿も殿も子供であるまいに・・・・。では、取り敢えずそれがしが天守閣建設費の工面に行き申そう。大殿のご案内は殿にお願いしまするぞ。さ〜て、島井宗室殿は拙者の名槍・日本号をカタに幾ら貸してくれるでござろうか〜?」
[続く]