2010 年 6 月 のアーカイブ

「大友氏」株式会社と耳川の戦い・・・・九州三国志②

2010 年 6 月 1 日

(湛)

「叔父さん、今日は九州三国志の続きをしましょう。」

(室)

「うむ。室町時代から戦国時代にかけて、大友家の仮想敵国は中国地方から北九州進出を狙う大内氏、或いはその後継者である毛利氏だったというのは前にお話したとおり。」

(湛)

「最盛期の大友氏は本拠・豊後国に豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後(熊本県)を加えた6ヶ国を支配し、各地に分散配置した同族や重臣、或いは大友氏に従属する(協力的だが独立した)地方領主を通じて統治していたんですよね?」

(室)

「左様。今の会社組織でいうと、直営系の支店(大友氏の同族や重臣)と独立系の代理店(地方領主)で組織網を構成していたと思えば良いかな。」

(湛)

「例えば、大友氏の同族である筑前国の立花氏や国東半島の田原氏は同族が経営する支店、豊後国佐伯城の佐伯氏はやはり重臣が置かれた支店、筑後国柳川城の蒲池氏等は独立系の代理店みたいなものですね?」

(室)

「そうじゃな。このように一見、現在の商社のような大友氏の組織は、大友家の優秀な官僚団と強大な軍事力に支えられて戦国時代には有効に機能し、安定した治世を実現したのだ。しかし、一つだけ大きな難題があった。」

(湛)

「大友氏傘下の武将や地方領主達は、軍事的優位に立つ大友氏から安全保障の恩恵を受ける代わりに、大友氏の勢力圏・組織を支えていました。しかし、仮に大友氏が軍事的に劣勢になり、勢力を挽回できなくなると、傘下の武将や地方領主の領地や権益を含めた安全保障を出来なくなる(つまり、大友氏の信用が失墜)すると、大友氏の組織や戦力を維持する武将や地方領主はたちまち離反してしまうのです。」

(室)

「うむ。何といっても戦国の世。各々の安全保障は何物にも代え難かったはず。宗麟殿もそのジレンマに悩まされたようじゃ。結局、大友氏の領地や軍勢の大部分は、各領主を通じて機能するものであり、反対に大友氏が直接掌握できる領地や軍勢は極めて流動的であったとさえ言える・・・・。」

(湛)

「つまりは強大な大友氏も決して一枚岩ではなかったと?」

(室)

「そうじゃな。」

(湛)

「やはり、そこは織田信長公あたりとは全然違いますね。信長公は征服した地方領主の軍団と領地を徹底的に解体し、吸収した人材を織田家のみに従う専属の職業軍人・官僚集団に仕立て上げていったのですから。九州の覇者と中央の覇者の差だったのでしょうね。」

(室)

「その通り。そして、建前上は宗麟殿の勢力範囲であっても、佐嘉(佐賀)水ヶ江城の龍造寺隆信殿、秋月古処山城の秋月種実殿等は潜在的には敵対勢力であり、彼等を牽制しつつ勢力範囲を拡大・安定させるというのが宗麟殿の領国経営の基本となる考え方だったのじゃ。」

(湛)

「勿論、勢力範囲の安定には外部の有効勢力との連携も不可欠ですよね?」

(室)

「左様。国外の大友家与党(友好勢力)としては、日向国伊東氏・肥後国相良氏・土佐国一条氏等が挙げられる。」

(湛)

「そして、何かが起こった訳ですね?」

(室)

「うむ。1577年、隣国・日向国(宮崎県)を治める伊東義祐が島津義久と戦って敗れ、血縁関係にある大友氏に亡命してきたのじゃ。」

(湛)

「なるほど。大友氏株式会社にとっては国外の協力企業を失う大事件ですね。秩序の安定の為には当然宮崎に出兵して島津軍を追い払う以外にありませんね?」

(室)

「ところが・・・・。物事はそう簡単にはいかなかった。もともと、やや開明的過ぎた大友宗麟殿はキリスト教に傾倒し、『宮崎の島津軍を討ってキリスト教の理想郷を建国する』という前代未聞の計画を宣言した。これが有名な『耳川の戦い(高城川原の戦いとも)』の始まりじゃ。」

(湛)

「何と?」

(室)

「九州最強を謳われた大友軍は総勢4万という大軍であったが、宗麟殿は彼等に寺院や神社を邪教の施設と見なして徹底的に破壊しながら進撃させたのじゃ。おまけに宗麟殿は征服地を教会(イエズス会)に寄付することまで約束しておった。」

(湛)

「当然、大友家中にも寺社の檀家や氏子は大勢居られたでしょうに?」

(室)

「勿論だ。そうなると、大友軍団を支える武将や兵士達の士気は次第に衰えていった。戦いに勝つ為に寺社に参拝して出陣していた時代に、寺院や神社を破壊しながら進むのでは、仏罰・天罰を恐れて軍団の戦意が下がるのは必定。」

(湛)

「攻略目標である島津方の高城に迫る前から、大友軍には不協和音が蔓延していたのですね。」

(室)

「左様。しかも、宗麟殿は戦いを部下に任せ、後方の無鹿で物見遊山の有様。一応高城を包囲したものの、大友軍内部には出兵そのものに反対の武将もいたことから、攻撃部署がなかなか定まらず、軍議を繰り返しているうちに島津義久殿率いる島津本隊約2万が到着してしまった。」

(湛)

「結局、味方の士気の低さを嘆いた大友軍先鋒大将の田北鎮周が島津軍に無謀な突撃を敢行し、後備えの佐伯宗天・筑後勢を率いる蒲池鑑盛もこれに続いて突撃したそうですが、結局部隊同士の連携の悪さを島津軍に衝かれていずれも戦死。大友軍は総崩れになりました。」

(室)

「これを『野釣り伏せ陣(小部隊を囮にして大友軍を釣り出し、逆包囲する)』と呼んで島津軍は自慢していたそうだが、私はそうは思わぬ。田北鎮周は味方の士気の低さを、佐伯宗天は味方のまとまりの悪さを嘆いて最初から死を覚悟して無謀な突撃を敢行したのだと思うぞ。」

(湛)

「結局、先鋒に続いて後続部隊が壊滅したことで大友宗麟殿は無鹿の本営を引き払って命からがら豊後へ逃げ帰りました。」

(室)

「残念だが、自ら陣頭指揮に立った島津殿と、後方で理想郷の計画にふけっていた宗麟殿の意気込みの違いが戦いの勝敗を決したことになるな。」

(湛)

「商いも戦も人任せはダメですよね。」

(室)

「そうとばかりも言い切れぬ。大友家の場合には、たとえ当主の宗麟殿が不在でも支障がないほどに優秀な将校・官僚団が揃っていた。当主自らが指揮を執らなくても家中が運用出来るというのは、統治システムとして非常に優秀であったと言えるな。」

(湛)

「しかし、大友家はその優秀な統治機構が仇となって耳川で決定的な敗戦を演じてしまった・・・・。」

(室)

「物事というのは何でも完璧主義ではなく、程々を目指すべきなのかも知れぬな・・・・。」

(湛)

「そう、ボクのように!」

(室)

「お前は程々働いているだけの割に稼ぎ過ぎじゃ!もう少し汗水を流せ!」

(湛)

「・・・・。」

[続く]