エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(父)
「長政よ。現在の福岡市中央区に『警固』の地名という地名があるようじゃが?」
(子)
「はい、父上。同じ中央区の警固神社に由来する地名でございます。」
(父)
「警固神社とは、何だか守りが堅そうな名前じゃのう。」
(子)
「左様ですな。ときに父上は鴻臚館をご存知でございますか?」
(父)
「父に向かって何と陳腐な質問じゃ!それ位ワシが知らぬと思って馬鹿にしておるのか?」
(子)
「ひぇー、お許し下さい!父上、どう、どう。」
(父)
「ワシは暴れ馬か!まぁ、良い。鴻臚館とは、かつての平和台球場跡地、つまりは長政が築いた福岡城と同じ場所じゃが・・・・そこから発掘された古代の外交迎賓館・貿易施設のことであろう?」
(子)
「その通りでございます。勿論、父上も全てご存知のことと思いますが、ここは改めて皆様の為にご説明申し上げまする。そもそも古代の九州には、九州全体を統治する巨大省庁、大宰府政庁が設置されておりました。現在、福岡県太宰府市の太宰府天満宮近くにある大宰府政庁跡はまさにその遺構でございます。」
(父)
「うむ、古代の大宰府は小さな政府のようなもの。税の徴収や裁判権、役人の人事権まで管轄する巨大省庁じゃな。そして、当然外交・貿易についても担当していた。大宰府の監督の下、外交・貿易を担う役所が鴻臚館という訳じゃ。」
(子)
「左様。では父上、ここで問題でございます。我等、政治を行う者にとって、外交と表裏一体の権能とは何でございましょう?」
(父)
「またまたつまらぬ問答を出しおって!外交と表裏一体の権能とは、即ち国防であろう?国防、つまり国を護る力無ければ外交は機能せず、逆に外交が国防に繋がることもあまたある・・・・。まぁ、外交と国防が表裏一体と考えるのはワシが生来武家の者だからかも知れぬがのう。」
(子)
「誠にその通りでございます。大宰府が九州の州政府であれば、また然り。そこで、外交を司る役所である鴻臚館に対して、国防を司る対の役所として設置されたのが警固所でございます。」
(父)
「ふむ、なるほど・・・・。それで、警固という守りの堅そうな名称であったか・・・・。では、外交の鴻臚館と対となる役所であれば、警固所も鴻臚館と同じ場所にあったという訳じゃな?」
(子)
「はい。ですが、国防という重責を担っていた警固所も、交易の拠点が博多へと、国防力の中心が武士へとそれぞれ移っていくに従って廃れてしまい、私が福岡城を築く頃には、警固所跡地の名残として警固神社が残っているだけという状態でございました。」
(父)
「現在の警固神社に設置されている由来の石碑を読むと、太古の昔に朝鮮半島の新羅国と我国が争った際に、我国の勝利を呼び起こした瑞祥(めでたい兆し)を祀ってあるそうな。」
(子)
「そうでございます。ですから、私が築城を始めた頃の警固神社は、国防の役目を全うし終え、その魂のみが社として息づいている状態だったのです。そこで、現在の地に警固神社をお遷しすることにし、以後警固神社の周辺も警固と呼ばれるようになったのでございます。」
(父)
「そういえば、株式会社えんの面々も警固神社を手厚く信仰し、年始の挨拶には毎年社員総出で詣でるそうな。まさに地域の信仰が息づいた神社よのう。」
(子)
「左様でございますな。外交と国防を担う為に設置された警固所から、地域の信仰を受ける警固神社へ・・・・。警固という名前は実に不思議な由来がございますな・・・・。やや、父上!警固の地に建つ守りの堅そうな緑色の砦がございますぞ!」
(父)
「長政よ、そのようなことも知らぬのか?あれこそは女性一人でも安心して暮らせる程守りが堅く、砦よりも快適な新しき時代の城、その名もエンクレスト警固じゃ。良く覚えておくが良いぞ!」
(子)
「ははっ!長政しかと覚えましたぞ。ご覧の皆様もこの機会に是非覚えて下され!」
[続く]
(子)
「又兵衛よ、先日の約束どおり、今日は大坂の陣の話を聞かせてくれ。」
(又)
「では、皆様も良くご存知の関ヶ原の戦いの直後から始めましょう。『征夷大将軍』に任じられた徳川家康公ですが、唯一の心配事は自身の死後も、徳川幕府に諸大名が従ってくれるかということでございました。つまり、未だに徳川家の天下を認めぬ豊臣家と、豊臣恩顧(豊臣びいき)と呼ばれる加藤・福島・島津、そして我が黒田家等の西国の有力大名家が勢力を結集すれば徳川幕府の屋台骨は簡単に崩れてしまう恐れがあったのでございます。」
(子)
「しかも、家康公は当時70歳を過ぎ、豊臣秀頼公は20歳そこそこ。年齢による焦りもあった訳だ。」
(又)
「当時、『御所柿は一人熟して落ちにけり 木下に居て拾う秀頼』という有名な落首が流行りました。上手い歌ですな。将軍を譲って大御所となった家康公が亡くなれば秀頼公の天下となる、という意味ですが、秀吉公・秀頼公の若き日の名前である『木下藤吉郎』『拾』まで上手く詠んでありますな・・・・。ま、家康公が亡くなれば再び豊臣家の時代になると考える者も少なくなかった訳で、豊臣家、特に秀頼公の生母・淀殿はあくまで強気の姿勢を崩さず、家康公の高齢ゆえに決戦を焦る徳川家との間に緊張は高まりました。そして、豊臣家が再建中の方広寺大仏殿を巡って、徳川家にとって戦いの口実となるような事件が発生しました。」
(子)
「聞いているぞ。方広寺の鐘に刻まれた『国家安康』の文言は家康の名を二つに裂いて国を安らかにするという意味であり、『君臣豊楽』も豊臣を君主として楽しむという意味で徳川家への侮辱である、と徳川方がクレームをつけた訳だな?」
(又)
「左様。これに対して豊臣方は1614年冬、安芸国(広島県)の福島正則・薩摩国(鹿児島県)の島津家久等の西国有力大名へ豊臣家に味方するように檄文を送りましたが、残念ながら諸大名で豊臣家の求めに応じた者はおりませんでした。但し、秀吉公の莫大な遺産を使って集められた浪人の将士は、関ヶ原の戦いで領地を失った者を中心に約10万人にも達し、秀頼公の親衛隊である『七手組』の大将に私・真田信繁・長宗我部盛親・明石全登・毛利勝永・大野治房・木村重成の7名が選ばれました。」
(子)
「『真田信繁』については、皆様は『真田幸村』の名前でご存知かも・・・。しかし、それは後世に誤って知れ渡った名前で、真田家はもともと武田信玄公に仕えていた家柄。真田信繁の名前も武田信玄公の弟・『武田信繁』公に因んだものとか?」
(又)
「その通りです。しかも、真田勢はかつての武田精鋭部隊『赤備え』に因んで甲冑を真紅で統一しておりました。」
(子)
「かつて天下人・織田信長公を震え上がらせ、越後の龍・上杉謙信公と互角の戦いを繰り広げた甲州軍団・甲流兵学の継承者として真田信繁は戦いに望んだのかも知れぬな。」
(又)
「長宗我部盛親殿は戦国時代に四国全土を制圧し、『土佐の出来人』と呼ばれた長宗我部元親殿の後継で、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから、領国・土佐国(高知県)を没収されていました。その後は京都で寺子屋の先生をしておりましたが、豊臣方からスカウトされるや否や、旧家臣団が勢揃いして大坂城に入城しておりましたぞ。」
(子)
「明石全登とは、やはり関ヶ原の戦いで流罪になった宇喜多秀家の家老で、有名なキリシタン武将だな。毛利勝永はオレ様が豊前国中津城主だったときに、隣の豊前国小倉城主だった男・・・・。他の2名はあまり聞いたことがないな。豊臣家直系の人物か?」
(又)
「はい。大野治房は、豊臣軍総司令官であり淀殿の信任も厚い大野治長の弟。木村重成もやはり数少ない豊臣家生え抜きの家臣でした。そして、豊臣家の運命は我等7名の働きいかんに委ねられました。」
(子)
「逆に徳川軍は71歳の徳川家康公自らが総指揮を執り、諸国の大名に大坂攻めを指示なされた。その兵力は豊臣家に倍する20万人。でも、オレ様や福島正則は豊臣方への裏切りを警戒されて、江戸城に留まるように言われたんだぜ。失敬な!オレ様の父上がいくら腹黒いからって、オレ様まで一緒にするなってんだ!」
(又)
「ハハッ、最後の一言は大殿には内緒にしておきましょう。皆様もご内密に・・・・。そして、遂に『大坂冬の陣』が始まり、兵力で劣る豊臣軍では城を出て野戦に持ち込むか、堅固な大坂城に頼って籠城戦に持ち込むかで軍議がもめました。私や真田信繁殿は、城を出て徳川軍と一戦交えて大打撃を与える以外に豊臣家が生き残る道はないと主張しました。籠城戦というのは、所詮後詰めの援軍があって初めて戦い抜けるものですからな。かつて、難攻不落と云われた北条氏の小田原城が落城したのも、結局は助けに来る援軍が存在しなかったからなのです。大坂城も小田原城と同じ状態におかれていたのです。」
(子)
「そして、遂に徳川軍が大坂城に襲い掛かったわけだ・・・・。」
(又)
「左様、戦いのハイライトは真田信繁が大阪城南面に築いた砦『真田丸(真田の出丸とも)』でした。加賀の前田勢等、約2万数千の徳川方は真田信繁の挑発に乗って不用意に真田丸に攻め込みました。真田丸に取り付いた徳川方は、万全の準備で迎え撃つ真田隊から激しい銃撃を受け、主力の前田利常隊は大打撃を蒙る結果となりました。」
(子)
「負けず嫌いな又兵衛が真田信繁に出し抜かれた訳だ・・・・。クスクス。」
(又)
「ハハッ、それは違いますぞ。最初から私は大坂城の四方の中で南面が弱点になることを見抜いておりました。ところが、真田信繁もそのことに気付いていて、南面の守備を自分が引受けると言い出しました。しかし、私は大人・・・・。真田信繁に役目を譲り、そこに奴が真田丸を築いたわけです。私が指揮を執っていれば、前田勢は大打撃どころか全滅しておりましたぞ!」
(子)
「相変わらず、父上の長い々い自慢話に敵うのは又兵衛の大風呂敷だけだな・・・・。」
(又)
「・・・・真田隊は実に良く戦いました。奴の戦いぶりは、殿や私にも引けをとらぬ見事なものでした。しかし、孫子曰く『城を攻めるのは下手な戦、相手の心を攻めてこそ上手い戦』。相手の心を攻める戦においては、家康公の方が更に何枚も上手でございました。」
(子)
「家康公の巻き返しが始まった訳だ。」
(又)
「家康公は、軽率な攻撃を控えるように全軍に指示する一方、オランダ等から輸入した大砲を大量投入して大坂城本丸に容赦ない砲撃を加えて城方を精神的に追い詰めました。実際に淀殿の御座所付近に砲弾が落下して侍女数名が即死したことから、豊臣軍、特に事実上の大将である淀殿の戦意は急速に衰えていきました。」
(子)
「冬の戦が長引いたことで、攻める徳川軍は食料不足と寒気に悩まされ、守る豊臣軍も弾薬不足に悩まされるようになった。そこで、家康公は一計を案じて豊臣家との和平交渉を命じられた訳だ。」
(又)
「左様でございます。徳川方が提示した和平の条件は唯一つのみ・・・・。それが、『大阪城の堀を埋めること』であり、豊臣方はこれを受け入れたのでございました。しかし、この一見寛大に見える和平条件こそが、家康公の老いによる焦りと執念から出た謀略だったのでございます。」
(子)
「次回は、いよいよ『大坂夏の陣』編だな。又兵衛よ、次回は家康公に『死』を覚悟させた程の豊臣家最後の奮戦ぶりをしかと聞かせてくれ・・・・。」
(又)
「はっ、心得ましたぞ!」
[続く]