2009 年 9 月 のアーカイブ

天神・・・・それは学問の神様・菅原道真公に由来する

2009 年 9 月 30 日

(子)

「父上、今日はアクロス福岡の北側にある水鏡天満宮に参りましょう。」

(父)

「水鏡天満宮・・・・とな?」

(子)

「はっ。我等父子と同じく国を背負って立った国士の足跡が残る場所でございますぞ!」

(父)

「うむ、ワシはともかく長政が国を背負って立つ程の男児かについては疑問じゃのう・・・・。たとえ息子の評価であっても、甘やかさぬのがワシのポリシーなのじゃ。」

(子)

「父上の子として生を受けて数十年、私は父上の愛情を感じたことがないような・・・・。」

(父)

「・・・・。」

(子)

「まあ、それは良いとして。ここで質問でございます。父上が推す平安時代最高の政治家とはどなたでございましょう?」

(父)

「うむむ。それはズバリ通称六波羅入道、太政大臣『平清盛』公であろうな。別にワシが『永遠の文学少年』で『平家物語』の大ファンだからという訳ではないぞ。清盛公が現実を見据えたリーダーとしての資質に富み、日宋貿易に見られるような優れた経済観念を持っていたことに敬服しているのじゃ。西国を拠点に文化と商業を振興させた清盛公は長政にとっても立派なお手本になるはずじゃ。それにな、ワシは平家の人々の生き方が好きなんじゃよ。」

(子)

「左様ですな。しかし、父上は『文学少年』というよりも『文学中年』か『文学晩年』かと・・・・。」

(父)

「何じゃと!」

(子)

「も、申し訳ございません。しかし、私も平家の人々の生き様に共感しておりますぞ。幼い安徳天皇を『波の下にも都がございます』と慰めて共に壇ノ浦の海に飛び込んだ平時子様(通称二位の尼、平清盛夫人)、滅び行く平家を最後までまとめ続けた知勇兼備の名将・平知盛公(平清盛の四男)、優れた武勇を誇り、敵方である源頼朝公でさえも助命を望んだ平重衡公(平清盛の五男)・・・・。」

(父)

「それらの人々が仲間割れせずに、滅亡の瞬間まで平家の繁栄と存続の為に心を一つにしていたこと自体が素晴らしいとワシは思うぞ。源頼朝公も立派な方だとは思うが、源氏のように子が父を斬り、兄が弟を殺すような行為だけは受け入れたくないものよ。」

(子)

「確かに。では、父上が考える平安時代最高の文化人は?」

(父)

「でへへ・・・・。清少納言や紫式部かのう。ワシは生まれつきのインテリ故、幾つになってもそういう知的な女子に弱いんじゃよ・・・・。で、ワシは水鏡天満宮で清盛公と今後の東アジア戦略について会談を開くか?それとも、清少納言殿や紫式部殿達と連歌の会でも催したら良いかのう?」

(子)

「父上がさほどに想像力豊かとは存じませんでした・・・・。残念ながら、いずれも違いまする・・・・。」

(父)

「ガーン・・・・。」

(子)

「この長政が推す平安時代最大の政治家・文化人とは菅原道真公でござります。」

(父)

「ほう?」

(子)

「天満宮とは、そもそも天神様を祭った神社のことで、福岡市中央区天神の由来もこの水鏡天満宮に因んでおります。」

(父)

「長政よ、今日はよく勉強しておるのう。ついでにいうと、天神様とは雷神様のことじゃ。」

(子)

「太宰府天満宮も雷神、即ち菅原道真公に由来する神社でございますが、水鏡天満宮もまた菅原道真公に因んでおりまする。道真公のプロフィールについては、父上の方が詳しいかと・・・・。」

(父)

「うむ。道真公は代々学者の家に生まれ宇多天皇の信任を得て右大臣にまで昇進された。左大臣・右大臣は現在の宰相(首相)クラスであるから、大変な出世じゃのう。政治上の功績としては、当時の正式な歴史書である『日本三代実録』の編纂を行った他、中国大陸の唐帝国が衰退していることから『遣唐使』派遣の中止を提唱したのも道真公じゃ。しかし、基本的には天皇の権限を強化する思想の道真公は藤原時平等の有力貴族の反発を買い、謀反を企てた罪を着せられて大宰府の長官代理に左遷され、同地で亡くなられた。その後、ライバル藤原時平や皇太子が相次いで病死し、天皇が政務を行う清涼殿が落雷を受けたことから、道真公は雷神であるとされ、その怨念を鎮める為に九州・太宰府天満宮をはじめとする各地の天満宮で祭られることとなった。後世の人々は道真公が優れた学者であったところから、天満宮は学問の神様として崇敬されるようになった・・・と、まあこんなところかのう。」

(子)

「さすがは父上。この水鏡天満宮は、大宰府へ向かう道真公が福岡市中央区今泉の地で水鏡(水面に自らの姿を映す)し、憔悴した自らの姿を嘆いたことに因んで元々は今泉の地にございました。それを私が現在の地に移したのでございます。」

(父)

「優秀な人材は常に妬まれ、反発の対象になるものよ。国家を担う宰相となれば、周囲の妬みやなお同じ優秀な人材として、ワシは道真公の末路に深く同情するものがあるぞ・・・・。」

(子)

「また始まった・・・・。しかし、父上。道真公がこの福岡の地に足跡を残されたことで、福岡の人々が学問を愛し、この地より優秀な人材を輩出することが出来れば、長政にとってはそれ以上にありがたいことはございませんぞ。」

(父)

「長政よ・・・・。ワシほどではないにしても、そなたも弁舌の腕が立つようになったのう。少々驚いたぞ・・・・。」

(子)

「ハハッ。ありがとうございます。さあ、折角ですから、お参りを致しましょう。」

(父)

「うむ、そうじゃのう・・・・。やや?この見事な額の文字は?」

(子)

「実に達筆でございましょう?何を隠そう、この額の文字は1936年に第32代内閣総理大臣に就任した廣田弘毅の筆になるものです。初めての福岡出身の内閣総理大臣であり、明治〜昭和期を通じて唯一の福岡出身の首相です。」

(父)

「なるほど。彼もまた、国家を担う宰相であったのじゃな。それにしても、水鏡天満宮のように歴代の宰相の魂がこもった神社も珍しいのう。」

(子)

「はい。廣田弘毅は外交官出身であり、戦争の気配が色濃くなってきた時期に首相になりましが、予算等の面で軍部の主張を受け入れねばならない等、政情は安定せず、1年足らずで首相を退くことになりました。その後も外相等として活躍しましたが、結果的に我国は米国等の連合国との戦いに敗れ、廣田自身も戦争犯罪人として逮捕されてしまいました。彼は法廷で一言も自己弁護を行わず、軍人ではない文官としては唯一A級戦犯として処刑されました。」

(父)

「潔いが、実に気の毒じゃのう。」

(子)

「全くでございます。廣田弘毅の妻は、夫の助命を願って自殺し、全国で数十万人が減刑の署名を行ったそうです。非常に難しい問題でございますが、戦後永く首相を務めた吉田茂とは大の親友であり、廣田の首相就任を説得したのが吉田茂であったことを考えると、矛盾を感じまするなあ・・・・。」

(父)

「道真公と廣田弘毅・・・・。今日は二人の宰相の生き様に触れることが出来たが、不遇な御両名に対して我等が報いてやれることが一つあるぞ・・・・。」

(子)

「何でございましょう?」

(父)

「福岡の歴史について案内し、より福岡の名前を世に広めることじゃ。」

(子)

「全くそのとおりでございますな・・・・。明日からも頑張りましょうぞ!」

(父)

「それにしても・・・・。」

(子)

「???」

(父)

「ワシも長政をもっと天満宮に連れて行っておけば良かったわい。」

(子)

「それはどういう意味で・・・・?」

[続く]

ちょっと一息(2)・・・・後藤又兵衛マカリ来シテ、長政ニ謝ス

2009 年 9 月 9 日

(子)

「太兵衛のヤツもあんなところで父上に余計なことを・・・・。」

(??)

「何を落ち込まれているのです・・・・?」

(子)

「何者だ?」

(??)

「殿、私を覚えておいでですかな?」

(GUEST)

後藤又兵衛・・・・1560~1615年。安土桃山時代~江戸時代初期の武将。黒田八虎の一人。「又兵衛」は通称で、正式には「後藤基次」。黒田官兵衛・長政父子には播磨国時代から仕える。特に黒田長政とは兄弟同然に育てられたと伝えられ、共に武勇に秀でた長政・又兵衛のコンビは九州平定戦・朝鮮半島侵攻・関ヶ原の戦い等の戦場を疾駆し、筑前国黒田家52万石の基礎を築いたといえる。しかし、日増しに高まる又兵衛の武勇と名声、更には主君長政に対しても歯に衣着せず直言する態度が原因で長政との間には次第に亀裂が生じてしまう。後藤又兵衛は最終的に黒田家を去り、大坂城の豊臣秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死してしまうが、黒田家の武将を語る際には母里太兵衛と並んで欠かせぬ人物である。以下、(又)と表記。

(子)

「皆様、この者は後藤又兵衛と申しまして、我が黒田家の精鋭・黒田八虎の一人でありながら黒田家を勝手に去り、豊前国・細川家、播磨国・池田家へと次々に身を寄せ、最後には大坂の陣で豊臣方に付いてしまった不忠者なのです。・・・・いっそこのまま斬り捨ててくれるわ!」

(又)

「はは、相変わらず殿は気が短い・・・・。しかし、今日の私は、殿が福岡の町の案内役を仰せつかったとお聞きし、殿の応援にやって参ったのでございますぞ。」

(子)

「・・・・?それならば、お役目の手前、仕方あるまい。しかし、その前に聞いておかねばならないことがあるぞ!」

(又)

「何でございます?」

(子)

「何故黒田家を去ったのだ?」

(又)

「ハハッ。私への殿の仕打ちが酷かったからです。些細な不手際を理由に我が長男を改易(解雇)し、三男には猿楽の伴奏役という武士としては不名誉な役目を命じられる。朝鮮半島の戦においては、馬小屋に入り込んだ虎を単身で斬り倒した私に、『一軍の将のすることではない』と叱って皆の前で笑いものにする・・・・。」

(子)

「だまれ!又兵衛もオレが朝鮮軍の大将との一騎討ちで負けそうになった時に助けてくれなかったし、関ヶ原の戦いの先陣争いでは、せっかく敵軍を発見したのに又兵衛が『あれは雑兵』とウソをついたせいで先を越されたんだぞ!」

(??)

「これこれ、長政。あまり熱くなるでない。又兵衛も言いたいことがあるなら、あまり長政を怒らせるな。」

(子・又)

「父上?」「大殿?」

(父)

「長政よ。今回はワシから問題じゃ。長政が又兵衛に守らせていた益富城と国境を接していた大名は誰かのう?黒田家を離れた又兵衛が真っ先に頼った大名は誰かのう?『大名が国替えする際には、その年の年貢は新領主に残していく』という慣例を我が黒田家が破った為に長政を恨んでいる大名は誰かのう?」

(子)

「細川忠興でございますか?」

(父)

「そうじゃ。戦国の慣わしでは、隣国の大名との交渉は国境を守る城の大将の役目のはず。長政と細川忠興の板ばさみで、又兵衛は相当辛かったはずじゃぞ。」

(子)

「しかし、ならば細川家との勝手な交流を禁止するという主君の命令に従えば良いだけのこと。何の問題もございますまい。」

(又)

「・・・・。」

(父)

「そこよ。国境を守る城の大将が他国との外交を取り仕切る戦国時代から、大名の一元的な外交管理を行う平和な時代へと大きくシフトしたのじゃ。それは、『高い役職と広い領地を与えられた大身の家臣が大名家を支える時代』から、『主君の一元的な指揮の下に行政に秀でた官僚が大名家を支える時代』への変化といっても良い。その一方で又兵衛は確かに黒田家の家臣ではあるが、関ヶ原の戦いでは居並ぶ大名衆を前に発言出来る程の名士なのじゃ。又兵衛自身の家来衆も抱えており、その点は普通の大名と変わらぬ。」

(子)

「・・・・。」

(父)

「そんな名士が今更一官僚として生きていくのは決して楽ではない。要は黒田家が大きくなるに従って、又兵衛の存在も大きくなり過ぎ、又兵衛自身がいち早くそのことに気付いておったのじゃ。長政への恨みが鬱積していたのであれば、又兵衛は益富城に立て籠もって一戦挑んでおるわ。でも、そうはしなかった。自身の存在が大切な相手を苦しめる、或いは成長を邪魔している・・・・。人にとってこれ程辛いことはないぞ。そして、又兵衛にとって大切な相手とは主君である長政だったのじゃ・・・・。」

(又)

「流石は大殿。恐れ入りました・・・・。その通りでございます。」

(子)

「私は又兵衛のことを恨んで刺客まで放ってしまいました。又兵衛、本当にすまぬ・・・・。うう・・・・。」

(父)

「じゃが、又兵衛ももっと素直になるべきであったと思うぞ。実はのう、又兵衛を召抱える際にワシは随分悩んだのじゃ。後藤家の一族には、昔ワシを地下牢に閉じ込めた荒木村重に仕えていた者もいたし・・・・。しかし、その時この長政が又兵衛を是非召抱えてくれと泣きついたのじゃ。その言葉通り、長政は又兵衛を頼りとしつつも自分自身を磨き、少しでも又兵衛の主君として相応しい人物になろうと人知れず努力したはずじゃ。」

(又)

「殿・・・・。申し訳ございませんでした・・・・。」

(父)

「又兵衛よ、今回の我等のお役目はまだまだ続く・・・・。次は大坂の陣の話でもしてくれぬか?そなた程、あの戦を間近で見たものはおらぬはずゆえ。」

(又)

「承知致しました。」

(子)

「きっとだぞ・・・・。」

[続く]

舞鶴・大手門・・・・それは福岡城の遺構や別名に由来する

2009 年 9 月 9 日

(父)

「長政は逃げ出してしまったし、今回は太兵衛に案内を頼むかのう?」

(太)

「承知致しましたぞ。ガハハッ。」

(父)

「こうして歩いてみると、長政が自慢しておったように、福岡城は広いのう。」

(太)

「左様でござるな。例えば、向こうに見えている『大手門交差点』から城内中枢の本丸天守閣予定地(!)まで直線距離で約500メートルはござろう。」

(父)

「天守閣予定地・・・・。グスン!やっぱり福岡城も天守閣が欲しいよ〜!」

(太)

「・・・・大殿、天守閣の話は先程若殿との間で済みもうしたぞ!今さら赤児の様に駄々をこねても仕方ござるまい。」

(父)

「そうじゃの・・・・。普段冷静沈着なこのワシが単純で短気な太兵衛からなだめられるようでは本末転倒じゃ。」

(太)

「・・・・。拙者が単純で短気かどうかは別にして・・・・。その通りでござる。大殿、福岡城には天守閣こそござらぬが、城の遺構が由来となっている地名は幾つもございますぞ。例えば先程の『大手門交差点』は交差点脇にある『下之橋大手門』、つまり城内への正門の一つに因んだ名称でござる。かつての城の正門・メインストリートの遺構であればこそ、あれ程大きな道幅なのでござるな・・・・。因みに、『下之橋大手門』は平成12年に火災に遭ってしまい、現在のものは後に再建されたものでござる。」

(父)

「なるほど・・・・。それにしても見事に復元されておるな。」

(太)

「それだけではござらぬ。『下之橋大手門』以外にも『エンクレスト大手門』『エンクレスト大手門2』と城の『大手門』に因んだ建物が近隣にござる。他にも福岡市中央区の『城内』『赤坂門』『黒門』等はいずれも福岡城に因んだ地名でござる。」

(父)

「うむ、奈良や京都のように国宝級の歴史的な神社仏閣が密集しておるのも良いが、地名や遺構として歴史の香がほのかに残っている感覚というのも、堅苦しくなくて良いのう。仕事をしながら、あるいは散歩をしながら、気軽にあるがままの歴史の流れを感じる・・・・というのは福岡ならではの歴史の楽しみ方なのかも知れぬな。」

(太)

「福岡城はその姿から別名、舞鶴城とも呼び申す。周囲の『舞鶴』という地名や、『舞鶴中学校』の名称等はいずれも舞鶴城の別名から来たものとか。東西に広がる福岡城は、まさに博多湾に向かって翼を羽ばたかせて舞う鶴の姿そのものでござるな・・・・。」

(父)

「太兵衛は武骨者と思っておったが、なかなかのロマンチストよのう。やや?もう一羽、福岡城の対と思しき鶴が現れたぞ?・・・・。」

(太)

「あれこそが同じ舞鶴でも『エンクレスト舞鶴』でござる!」

[続く]