2009 年 6 月 のアーカイブ

其の五 〜団塊の世代とは・・・・?〜

2009 年 6 月 16 日

(子)

「今の世には『団塊の世代』という言葉が流行っておりまするな。」

(父)

「長政よ、急に何の話じゃ?」

(子)

「1947〜1949年生まれのベビーブーム世代のことでございます。人口比率で前後の世代より各々二〜三割位多く、我国の高度経済成長を支えたとか。平たく申せば現役社会人の両親の世代ですな。」

(父)

「だから、それがどうしたのじゃ?」

(子)

「実はこの長政の時代にも『団塊の世代』と呼べるものが存在致しました。私と共に石田三成を襲撃した七将の浅野幸長・細川忠興の父君、浅野長政殿・細川藤孝殿等がその例です。無論父上もそうです。」

(父)

「遠回しにワシを年寄り扱いしたいのか?」

(子)

「そうではございませぬ。私の時代の『団塊の世代』とは今の世の風物詩的な呼び名ではなく、戦国時代の最も厳しい時代を生き抜いた凄い世代の集まりであったと言いたいのです。」

(父)

「そうか?照れるのう。」

(子)

「秀吉様が亡くなった後、私や加藤清正・福島正則等が従う徳川家康様と石田三成との間で戦が起こるのは時間の問題と皆考えておりました。ですから、家康様から軍勢を率いて上京を命じられた際に、私は中津城の留守を父上にお願いして安心して出発出来たという訳です。」

(父)

「そこまでワシを信じてくれておったとは・・・・。照れを通り越して嬉し泣きしそうじゃ。」

(子)

「そもそも、私の戦いは関ヶ原の戦いのずっと以前から始まっておりました。若き日の父上と同じく、私も西軍の武将をヘッドハンティングするように家康様から頼まれていたのでございます。」

(父)

「対象はズバリ、西軍の総帥に就任した毛利輝元の家老・吉川広家と、秀吉様の甥に当たる筑前国(福岡県西部)名島城主・小早川秀秋じゃな?」

(子)

「左様。従いまして、1600年9月15日の関ヶ原の戦い当日よりも、事前の交渉の方が私にとってはずっと重い役目でございました。」

(父)

「しかし、お前のヘッドハンティングは実を結び、毛利軍に消極的な行動を取らせ、小早川軍を東軍に参加させたことで東軍は大勝利を収めた。良かったではないか?」

(子)

「そうでしょうか・・・・?では国元へ戻って関ヶ原での大勝利を父上にご報告した時、私の身に何が起こったか覚えてございますか」

(父)

「覚えておるぞ。」

(子)

「私が『家康様は大喜びで私の右手を強く握り締められました!』と申し上げると、父上は『その時、お前の左手は何をしていた!』と叱られましたな。あれは、左手で家康を刺せ!という意味ですな?既に家康様からは筑前国52万石を報償として頂けることになっておりましたのに、余りにも酷い仰りようではございませぬか?」

(父)

「長政もまだまだじゃな。あの時ワシが叱った理由は二つ。まず一つは徳川家の傘の下に安心するなということじゃ。あれ程栄えた織田家も豊臣家も信長公や秀吉様の死後は廃れていったではないか?家康殿を刺し殺す位の気概を持たねば生き残れぬ日が来るかも知れぬ、というワシからの警告じゃ。それと、もう一つ。実は関ヶ原の戦いがもっと長引くとワシは考えていたのじゃ。だから、その混乱に紛れて中津周辺の西軍を破って勝手に黒田家の領地を広げてしまおうというワシなりの野望があったのに、お前のヘッドハンティングが鮮やか過ぎてワシにその暇がなかった。つまりは、息子に越されたことへの嫉妬もあったんじゃよ。」

(子)

「うるうる。ち、父上っ!」

(父)

「臭い芝居をするな!大体戦国の『団塊の世代』は皆似たようなものばかりじゃ。佐賀の鍋島勝茂なぞは、父の鍋島直茂殿に新築の佐賀城を誇らしげに見せたら何と言われたと思う?『勝茂殿は腹を切る場所を忘れている』じゃぞ。皆、その様な心構えで生きてきたのじゃ。分かったか?」

(子)

「は〜い。」

(父)

「さあ、次へ行こう。家康殿から頂いた筑前国52万石が待っておるぞ。」

[続く]

其の四 〜ち・ん・ぴ・ら?〜

2009 年 6 月 16 日

(父)

「長政よ、何なのじゃ?甲冑なぞ着込んで!」

(子)

「父上、前回までの父上の長い々い自慢話のせいで、この長政のことを皆様が『父程の智謀も無く、親の七光りで平々凡々と過ごした二代目だろ?』位に思われては困りまするからな。この辺りで、私の誠の姿を知って頂こうかと。」

(父)

「・・・・。」

(子)

「さて、以前に父上が信長公から疑いを掛けられ、この長政が殺されそうになったお話をしましたな。しかし、その後は武将として順調に成長し、父上から豊前国中津城を受け継いで豊臣政権の立派な二代目大名。しかも、はかりごとの自慢話ばかりする暗い性格の父上とは違って、私は明るい性格で、危険を顧みず戦いの最前線に立ち、自ら馬に跨り剣を振るう快活な若武者。人々からは『黒田軍の先鋒の武者を五、六人倒すことが出来れば、きっとその中に黒田長政自身がいるに違いない』と、その勇気を称えられました。もっとも、腕の立つ私は敵に倒されたことはございませんがね。ハハハッ!」

(父)

「愚か者!それは大名が自ら先頭に立って剣を振う等、大将の器にあらずと馬鹿にされておるのじゃ。」

(子)

「さ、左様でございましたか。しかし、この長政を本心から馬鹿にするものが現れたのでございます。」

(父)

「ふむ。茶坊主から近江国(滋賀県)佐和山城十四万石の主に出世した石田三成じゃな。」

(子)

「その通り。石田三成等、五奉行は戦場で命を掛けて戦う私や加藤清正・福島正則に上から目線で命令し、奴等がする仕事といったら田畑を検地したり、軍隊に補給をしたり、秀吉様の命令を書面に起こしたりと、戦に比べればどうでも良いことばかり。」

(父)

「豊臣家にとってはどちらも大切なことじゃがのう。」

(子)

「しかし、秀吉様の命令で朝鮮半島に攻め込んだ時も、現地での我等の手柄を石田三成等に握り潰されたではございませんか?」

(父)

「確かにのう。」

(子)

「しかも、1598年に朝鮮半島での戦いの最中に秀吉様が亡くなると、三成等の態度は益々大きくなる始末。」

(父)

「そこで、長政と加藤清正・福島正則・加藤嘉明、それに池田輝政・浅野幸長・細川忠興の七将で石田三成を襲撃した訳じゃな?しかし、両加藤と福島は喧嘩早いので有名な『賤ヶ岳の七本槍』の内の三人。そして、長政と池田・浅野・細川はやはり喧嘩早いので有名な名家の跡取り息子。周りは良い迷惑じゃったろうな。」

(子)

「今になって考えれば・・・・。しかも、三成には逃げられてしまい、我等七名は五大老筆頭の徳川家康様からはキツいお叱りを受けたのでございます。『お前達はチンピラか!』と。」

(父)

「ふふ、チンピラとは家康殿も上手いことを仰る。」

(子)

「でも、この時我々チンピラ七人の頭には、我々を叱り付けて三成との仲裁をして下さった家康様の度量の大きさがしっかり刻み込まれたのでございます。これからの政治はこのお方抜きにしては在り得ないと。」

(父)

「そして、一年半後の関ヶ原の戦いに至るわけじゃな。」

(子)

「左様です。我等七将は家康様の率いる東軍の主力として戦うことになるのですが、それはまた次回ということで・・・・。」

[続く]