龍造寺氏VS大友氏VS島津氏・・・・九州三国志①

2010 年 4 月 7 日

(湛)

「叔父さん、本日は三国志の話でも皆様にお聞かせしてはいかがでしょう?」

(室)

「おお、少し前に映画でやっていたな!『レッドクリフ』の舞台であろう?」

(湛)

「叔父さんも相変わらず空気が読めませんねぇ~。」

(室)

「ええっ!?」

(湛)

「今日は我々が活躍した博多の町を巡って争った戦国時代九州の群雄達にスポットを当てようという話ですよ・・・・。」

(室)

「なるほど、それは良い考えだ。」

(湛)

「中世の博多は、堺と並ぶ日本の国際貿易港の双璧であり、まさに九州の真珠。」

(室)

「そして、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて九州各地の武士団は力をつけ、後には天皇や幕府の威令にも逆らうほどの勢力を誇るようになっていった。」

(湛)

「それらの勢力がやがて、九州三国志の源流となったわけですね。」

~九州最強のキリシタン大名・大友宗麟~

(室)

「うむ。まずは、豊後国(大分県)の大友氏。もともと大友氏は鎌倉時代に守護として九州に赴任し、そのまま鎌倉時代・室町時代を通じて豊後国守護大名として君臨した家系だ。初代の大友能直公は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の子であるとも云われる九州の名門でもある。」

(湛)

「とはいえ、室町時代以降の大友氏は冬の時代が続いたとか?」

(室)

「そうじゃな。特に、中国地方の雄・大内氏は大友氏の弱体化を狙って様々な権謀術数を仕掛け、大友氏は何度も分裂・弱体化の憂き目に遭ってしまったのだ。しかし、第19代大友義長・第20代大友義鑑の時代になると、大友氏は戦国大名としての地位を確立して九州最大の勢力を誇るようになった。」

(湛)

「特に、第21代当主である大友義鎮(1530~1587年。法名の大友宗麟が有名)殿の時代になると、隣接する豊前国(北九州市を含む福岡県東部)・筑前国(福岡市を含む福岡県西部)・筑後国(福岡県南部)・肥前国(佐賀県・長崎県)にも進出して九州最強の戦国大名となりました。また、博多の町を勢力下に置いたことから、博多商人、特に宗室叔父さんとは非常に親しい間柄でした。」

(室)

「それだけではない。大友宗麟殿の前半生は武運にも恵まれ、やはり鎌倉時代以来、代々肥後国守護を務めた菊池氏を滅ぼし、先の大内氏の地盤を引継いだ名将・毛利元就(1497~1571年。『三矢の教訓』で有名な中国地方の戦国大名)殿と豊前国・門司城、筑前国・立花城(博多を護る要の城)を巡って戦って善戦し、大友氏の最盛期を築いた。更に、居城のある府内・臼杵では大々的な南蛮貿易を行い、カトリック宣教師を招いて自らも改宗する等、極めて開明的な戦国大名でもあったのじゃ。」

~無敵の薩摩隼人を率いる島津貴久・義久~

(湛)

「次は薩摩隼人を率いる島津氏ですね。」

(室)

「大友氏もそうであったが、島津氏の初代・島津忠久公も源頼朝公の子であるとも云われている。」

(湛)

「島津氏もやはり鎌倉時代に東国から下向した『下り衆』だといわれていますね。」

(室)

「そして、大友氏と同じように鎌倉時代以降代々薩摩国(鹿児島県西部)守護を務め、その勢力は隣国の大隈国(鹿児島県東部)・日向国(宮崎県)に及ぶ大大名となった。しかし、室町時代後期には島津本家と各分家、更には地元豪族との対立から弱体化した。」

(湛)

「その中で、一族の島津貴久(1514~1571年)殿が内紛を制して島津本家を継ぐと、島津家は急速に結束し、本国・薩摩の統一を果たして鹿児島に内城を築きました。」

(室)

「島津貴久殿の子、島津義久(1533~1611年)殿の代になると、大隅国の肝付氏・日向国の伊東氏・肥後国南部の相良氏等の有力氏族や守護大名を降して大友氏や龍造寺氏とも勢力圏を接するようになったのじゃ。」

~「肥前の熊」と畏れられた龍造寺隆信~

(湛)

「大友・島津の両家は守護大名として代々各国を治めてきた家柄ですが、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信(1529~1584年)殿のプロファイルはいかにも戦国時代らしい波乱に満ちています。」

(室)

「鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとったのが少弐資能公。その子孫は代々筑前国大宰府、後には肥前国東部を拠点として九州北部を支配したが、その家老格の家柄にあったのが肥前国佐賀の龍造寺氏じゃ。」

(湛)

「では、龍造寺氏は結果的に主君・少弐氏を倒して戦国大名の道を歩んだわけですね。」

(室)

「まあ、色々な紆余曲折があったのであろうが、結局はそうなるな。」

(湛)

「いかにも戦国時代らしい大名家ですね。」

(室)

「しかし、龍造寺隆信殿とて最初から『肥前の熊』と畏れられていたのではないぞ。彼は家督相続直後に一度城を追われ、その後は二度にわたって大友宗麟殿の侵攻を受けて滅亡の瀬戸際に追い込まれたこともある。」

(湛)

「特に二度目の戦いでは、大友軍は6万とも8万ともいわれる大軍勢を繰り出し、龍造寺氏の居城・佐嘉水ヶ江城を半年以上包囲しました。しかし、後の佐賀藩祖・鍋島直茂殿の活躍で今山の合戦に龍造寺軍は大勝利し、肥前国での優位は揺るがぬものとなったのです。」

(室)

「その後は破竹の進撃を続け、弱体化した大友氏の筑前国・筑後国・肥後国等に攻め入り、『九州五ヶ国二島の太守』と渾名されるようになったのだ。」

(湛)

「『肥前の熊』と畏れられるようになったのもこの頃ですね。」

(室)

「当時の耶蘇会(カトリックのイエズス会)の宣教師フロイス殿は、『(龍造寺隆信の)配慮と決断、カエサルに似たり!』と評しておられるとか・・・・。」

(湛)

「古代ローマ最高の英傑といわれるカエサルに喩えられる戦国武将は滅多にいませんよ。確かに龍造寺殿の『配慮と決断』力は群を抜いていたのでしょうね・・・・。では、次回は皆様に大友宗麟・島津義久・龍造寺隆信の九州三強の激闘についてお話しましょう。シーユーネクストアゲイン!」

(室)

「そのノリはやめい!」

[続く]