本能寺の変・・・・あきんどは見た!!!

2010 年 2 月 1 日

(室)

「宗湛よ、今日は我等が遭遇した歴史上最大の事件について皆様にお話しせねばなるまいのう。」

(湛)

「織田信長公が明智光秀殿に討たれた『本能寺の変』ですね!」

(室)

「1582年5月29日、信長公は本拠安土城を出発して京の本能寺へ向われた・・・・。既に博多から京へ上っていた私は、6月1日に信長公秘蔵の名茶器38品を見せて頂く約束をしていた・・・・。」

(湛)

「叔父さんも、国一つと交換できると言われたほどの名物茶器『楢柴』を信長公に献上するつもりで持参していたんですよね?勿論、ビジネスチャンスとばかりにボクも同伴していました。」

(室)

「折りしも、信長公は宿敵武田勝頼を甲斐国・天目山の戦いで滅ぼしたばかり・・・・。信長公が入京すると、公家衆等から次々に戦勝祝いの挨拶が届けられた。」

(湛)

「そして、6月1日運命の前夜・・・・。信長公に謁見した叔父さんとボクは、信長公の長男・織田信忠様や、前関白・近衛前久様と共に茶会に呼ばれ、その後は囲碁の対局、酒宴へと夜は更けていきました。」

(室)

「そういえば、いつの間にか信忠様は妙覚寺へ、近衛卿は自邸へ、それぞれ引き揚げられていたようじゃな。」

(湛)

「やがて、我等も寝所へ引き揚げました。しかし、時を同じくして丹波国(京都府)亀山城では歴史を塗り替える大謀略の歯車が静かに回り始めていました。」

(室)

「6月1日、織田軍団の丹波方面軍司令官というべき明智光秀殿は明智秀満・斉藤利三等の側近と相談の上、信長公を討つ決意を固め、約12,000名の兵を率いて丹波亀山城を出陣。『敵は本能寺にあり!』とばかりに丹波国・山城国の境である老ノ坂を超え、京をめざしていた・・・・。そして、明くる6月2日未明、桂川を渡って京の洛中(中心部)に攻め込んだ明智軍は本能寺を取り囲んだのじゃ。」

(湛)

「あの日のことは今でもハッキリ覚えています。時刻は卯の刻(午前6時前後)、ボクは叔父さんのイビキが煩くて一晩中眠れずにいました・・・・。」

(室)

「関係ないことは黙っとれ!」

(湛)

「まあまあ・・・・。無数の足音と、軍勢の鬨(とき)の声でふっと我に帰ったボクは、叔父さんを叩き起こしました。」

(室)

「ふむ、宗湛に起こされた私は様子を見るために部屋を出た我等は、信長公の家来衆より『明智殿が謀反して攻め寄せて来たので、安全の為に本能寺を退去して頂きたい』と申し渡された。」

(湛)

「とりあえず、叔父さんとボクは身の回りの物を持って避難することにした訳です。叔父さんは気が動転して、名器・楢柴を危うく忘れていくところでしたよね・・・・。」

(室)

「あの時、宗湛が『叔父さん、楢柴は?』と声を掛けてくれなかったら、楢柴は歴史から消えていたかも知れぬ。助かったぞ。」

(湛)

「いえいえ・・・・。」

(室)

「しかし、信長公に従う家来衆はどう見ても100名余り。恐らく数千の明智軍に対しては余りにも多勢に無勢。やがて建物には火の手が回り、私と宗湛は出口を探して広大な敷地を彷徨った・・・・。」

(湛)

「そして、まさにその時!ボク達は無造作に置かれた2本の掛け軸に目を留めました。」

(室)

「燃え盛る炎の中で、弘法大師(空海)直筆の『千字文』と牧谿作の『遠浦帰帆図』を見つけた私と宗湛はこれ等の逸品をとっさの機転で持ち出した・・・・。人よ、我等を火事場泥棒と思うなかれ。私は、天下の名品が灰になるのを見過ごすことが出来なかったのだ・・・・。」

(湛)

「何を詩人みたいに呟いているんです・・・・。皆さんは叔父さんががめついから火事場泥棒をやったとしか思っていませんよ!」

(室)

「えっ・・・・?」

(湛)

「その後、信長公は自ら、弓・槍を取って戦われましたが、近習は殆ど討ち取られ、やがて燃え盛る本能寺の奥に籠って自ら命を絶たれたそうです。しかし、信長公の亡骸は結局見つからず、明智殿が謀反した理由と共に永遠の謎となりました。」

(室)

「それは不可解な!」

(湛)

「確かに。更に、明智軍は本能寺で信長公を襲撃するだけでなく、織田信忠様も前後して襲撃する手はずを整えていました。信長公だけでなく、その後継者まで抹殺しておかなければ謀反は成功しないという、智将・明智殿らしい周到な方法でした。」

(室)

「妙覚寺で本能寺炎上の報を受けた信忠様は、『すぐさま京都を脱出して再起を図るべき』との家臣の進言を、『これ程周到な準備を進めている敵ならば、帰路の街道筋も既に封鎖されているはず』として退け、二条城に籠城された・・・・。」

(湛)

「信忠様が『すぐさま京都を脱出』という選択をしていれば、歴史は変わっていたかも知れませんね・・・・。」

(室)

「しかし、信忠様に従う手勢はわずか500騎程・・・・。二条城に殺到した明智軍の前に、信忠様も力尽きて自害された。」

(湛)

「こうして、戦国の覇者・織田軍団は一夜にして、そのカリスマ的指導者と後継者を一夜にして失い、権威の象徴・安土城も数日後には焼け落ちてしまったのです。あれから四百数十年・・・・。現在、叔父さんが持ち帰った『千字文』は博多区の東長寺に、ボクが持ち帰った『遠浦帰帆図』は東京の国立博物館にそれぞれ収蔵されています。」

(室)

「結局、日本史上最大の事件を目の当たりにしながら、ほうほうの体で本能寺を脱出しただけに終わってしまったか・・・・。」

(湛)

「因みに、中国方面の織田軍団の司令官であった羽柴秀吉殿が『本能寺の変』の一部始終を知って、軍勢を京都へ急反転させたのは、それから10日余り後のことです。」

(室)

「そして、この羽柴秀吉殿は、後に『豊臣秀吉』と名乗り、我等博多商人とも深く係わられることになるのですが、それはまた後日・・・・。」

(湛)

「次回は、久しぶりに博多の町を歩きましょう。」

 [続く]