饅頭発祥の地とは?

2010 年 7 月 7 日

(湛)

「さあて、大博通り周辺で聖福寺・東長寺と共に欠くことが出来ない寺院といえば、あとは承天寺ですね?」

(室)

「うむ。承天寺を開山した聖一国師は臨済宗の高僧で、栄西禅師と同様に中国大陸(宋)に渡って禅を学び、帰国後に博多に承天寺を開いたのだ。」

(湛)

「承天寺の建立には、有力武将や貿易商からの寄付があったとか?」

(室)

「左様。例えば、寺院建設に必要な資材を提供したのは博多在住の豪商・謝国明殿だという。」

(湛)

「謝国明殿といえば、以前大河ドラマの『北条時宗』に出ていたあの妖しい貿易商ですね?」

(室)

「これこれ。それは余りにも失礼であろう。謝国明殿は博多の発展にも寄与した我等博多商人の偉大な先人じゃぞ。」

(湛)

「だって、一族郎党が全員大陸風の衣装に身を包んでいて、雑技団みたいな武術を使うし、おまけに親友が松浦党の海賊ですよ。妖しくない訳ないじゃないですか!」

(室)

「・・・・。まあ良い。それから、承天寺の敷地を提供したのは大宰府の武官であり、鎌倉幕府の有力御家人でもあった武藤資頼公。」

(湛)

「武藤資頼公は鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとった少弐資能公の父ですね?」

(室)

「その通り。資能公の代になって官職である『太宰少弐』から『少弐』氏を名乗るようになったが、当時の武藤(少弐)氏の勢力は強く、豊前国・筑前国・肥前国・壱岐国・対馬国を守護として支配していたのだ。」

(湛)

「事実上の博多の庇護者だった訳ですね。」

(室)

「左様。このことだけ見ても、承天寺の格の高さが分かるというもの。」

  • * *

(湛)

「さて、着きましたよ。」

(室)

「この門には菊の御紋がある。かつては官寺であっただけあって、勅使(天皇の使者)を通す為の勅使門がある。聖福寺の時のように勅使門に近付くでないぞ。宗湛、分かったか?」

(湛)

「は~い。おや、『饅頭素麺発祥の地(まんじゅうそうめんはっしょうのち)』とは何でしょう?」

(室)

「承天寺の開祖である聖一国師は、大陸に渡って禅の教えを学んだ一方で、まんじゅう・そうめんの製法を身に付けて帰国したのだ。」

(湛)

「なるほど。それで、まんじゅうとそうめんの製法を持ち帰ったこの博多の町に『饅頭素麺発祥の地』という石碑があるのですね。」

(室)

「うむ、没後に花園天皇より贈られた『聖一』の国師号もそういった仏教以外の功績を含めたものかも知れぬな。」

(湛)

「敷地内を見回すと、鐘楼や金堂をはじめ、いかにも禅寺らしい崇高で落ち着いた雰囲気の建物が並んでいますね。」

(室)

「最盛期と比較すればその後の戦乱で著しく規模が縮小し、戦後の区画整理で敷地内に道路が通ってしまっているが、それでも往時の雰囲気を充分に残しているな。」

(湛)

「叔父さん、この石の塊は何ですか?」

(室)

「これは、鎌倉時代に博多に来襲したモンゴル軍(元寇)が使用していた軍艦の石製の錨だな。」

(湛)

「これが、かつてユーラシア大陸全土に猛威を振るったモンゴル軍の軍艦の一部なのですね。あの時は叔父さんも大変だったでしょう?」

(室)

「うんうん、あの時は現金と小さくて高価な物を身に付けて家族や使用人と博多から肥後の菊池へ避難を・・・・。って、私が生まれたのは元寇の200年以上後だっ!」

(湛)

「へへ、冗談ですよ。」

(室)

「全く、叔父を年寄り扱いしおって!」

(湛)

「話は変わりますが、博多山笠の源流も承天寺と聖一国師だとか?」

(室)

「左様。1241年に博多の町で疫病が流行した際に、聖一国師が病魔退散の為に輿に乗って街を清めて巡ったのが由来だと言われている。」

(湛)

「それにしても、本当に承天寺は興味深い寺院ですね。鎌倉時代の大大名である少弐氏や豪商・謝国明殿の援助で建てられ、勅使門を有するような格式の高い寺院でありながら、人々の生活に根付いた饅頭や素麺、おまけに博多山笠の発祥に地でもあるなんて。政治と風俗という一見相反するものの歴史を一度に垣間見られますね。」

(室)

「ところで宗湛よ。せっかく饅頭発祥の地に来たのだから、どこかで美味い饅頭でも買って帰るか?」

(湛)

「いやだなあ、叔父さん。先程お昼を食べたばかりなのに・・・・。あまり間食ばかりしていると、メタボになっちゃいますよ!ボクは叔父さんの健康を本当に心配しているんですから。」

(室)

「(ムカッ)そうかそうか。それ程私の健康が心配ならば、大博通りの北端から南端までランニングで往復10周するか?」

(湛)

「・・・・。さあて、美味しいお饅頭屋さんはどこかな?あ、ケーキ屋さんでもいいな!」

(室)

「調子のいいヤツだ!」

[続く]

「大友氏」株式会社と耳川の戦い・・・・九州三国志②

2010 年 6 月 1 日

(湛)

「叔父さん、今日は九州三国志の続きをしましょう。」

(室)

「うむ。室町時代から戦国時代にかけて、大友家の仮想敵国は中国地方から北九州進出を狙う大内氏、或いはその後継者である毛利氏だったというのは前にお話したとおり。」

(湛)

「最盛期の大友氏は本拠・豊後国に豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後(熊本県)を加えた6ヶ国を支配し、各地に分散配置した同族や重臣、或いは大友氏に従属する(協力的だが独立した)地方領主を通じて統治していたんですよね?」

(室)

「左様。今の会社組織でいうと、直営系の支店(大友氏の同族や重臣)と独立系の代理店(地方領主)で組織網を構成していたと思えば良いかな。」

(湛)

「例えば、大友氏の同族である筑前国の立花氏や国東半島の田原氏は同族が経営する支店、豊後国佐伯城の佐伯氏はやはり重臣が置かれた支店、筑後国柳川城の蒲池氏等は独立系の代理店みたいなものですね?」

(室)

「そうじゃな。このように一見、現在の商社のような大友氏の組織は、大友家の優秀な官僚団と強大な軍事力に支えられて戦国時代には有効に機能し、安定した治世を実現したのだ。しかし、一つだけ大きな難題があった。」

(湛)

「大友氏傘下の武将や地方領主達は、軍事的優位に立つ大友氏から安全保障の恩恵を受ける代わりに、大友氏の勢力圏・組織を支えていました。しかし、仮に大友氏が軍事的に劣勢になり、勢力を挽回できなくなると、傘下の武将や地方領主の領地や権益を含めた安全保障を出来なくなる(つまり、大友氏の信用が失墜)すると、大友氏の組織や戦力を維持する武将や地方領主はたちまち離反してしまうのです。」

(室)

「うむ。何といっても戦国の世。各々の安全保障は何物にも代え難かったはず。宗麟殿もそのジレンマに悩まされたようじゃ。結局、大友氏の領地や軍勢の大部分は、各領主を通じて機能するものであり、反対に大友氏が直接掌握できる領地や軍勢は極めて流動的であったとさえ言える・・・・。」

(湛)

「つまりは強大な大友氏も決して一枚岩ではなかったと?」

(室)

「そうじゃな。」

(湛)

「やはり、そこは織田信長公あたりとは全然違いますね。信長公は征服した地方領主の軍団と領地を徹底的に解体し、吸収した人材を織田家のみに従う専属の職業軍人・官僚集団に仕立て上げていったのですから。九州の覇者と中央の覇者の差だったのでしょうね。」

(室)

「その通り。そして、建前上は宗麟殿の勢力範囲であっても、佐嘉(佐賀)水ヶ江城の龍造寺隆信殿、秋月古処山城の秋月種実殿等は潜在的には敵対勢力であり、彼等を牽制しつつ勢力範囲を拡大・安定させるというのが宗麟殿の領国経営の基本となる考え方だったのじゃ。」

(湛)

「勿論、勢力範囲の安定には外部の有効勢力との連携も不可欠ですよね?」

(室)

「左様。国外の大友家与党(友好勢力)としては、日向国伊東氏・肥後国相良氏・土佐国一条氏等が挙げられる。」

(湛)

「そして、何かが起こった訳ですね?」

(室)

「うむ。1577年、隣国・日向国(宮崎県)を治める伊東義祐が島津義久と戦って敗れ、血縁関係にある大友氏に亡命してきたのじゃ。」

(湛)

「なるほど。大友氏株式会社にとっては国外の協力企業を失う大事件ですね。秩序の安定の為には当然宮崎に出兵して島津軍を追い払う以外にありませんね?」

(室)

「ところが・・・・。物事はそう簡単にはいかなかった。もともと、やや開明的過ぎた大友宗麟殿はキリスト教に傾倒し、『宮崎の島津軍を討ってキリスト教の理想郷を建国する』という前代未聞の計画を宣言した。これが有名な『耳川の戦い(高城川原の戦いとも)』の始まりじゃ。」

(湛)

「何と?」

(室)

「九州最強を謳われた大友軍は総勢4万という大軍であったが、宗麟殿は彼等に寺院や神社を邪教の施設と見なして徹底的に破壊しながら進撃させたのじゃ。おまけに宗麟殿は征服地を教会(イエズス会)に寄付することまで約束しておった。」

(湛)

「当然、大友家中にも寺社の檀家や氏子は大勢居られたでしょうに?」

(室)

「勿論だ。そうなると、大友軍団を支える武将や兵士達の士気は次第に衰えていった。戦いに勝つ為に寺社に参拝して出陣していた時代に、寺院や神社を破壊しながら進むのでは、仏罰・天罰を恐れて軍団の戦意が下がるのは必定。」

(湛)

「攻略目標である島津方の高城に迫る前から、大友軍には不協和音が蔓延していたのですね。」

(室)

「左様。しかも、宗麟殿は戦いを部下に任せ、後方の無鹿で物見遊山の有様。一応高城を包囲したものの、大友軍内部には出兵そのものに反対の武将もいたことから、攻撃部署がなかなか定まらず、軍議を繰り返しているうちに島津義久殿率いる島津本隊約2万が到着してしまった。」

(湛)

「結局、味方の士気の低さを嘆いた大友軍先鋒大将の田北鎮周が島津軍に無謀な突撃を敢行し、後備えの佐伯宗天・筑後勢を率いる蒲池鑑盛もこれに続いて突撃したそうですが、結局部隊同士の連携の悪さを島津軍に衝かれていずれも戦死。大友軍は総崩れになりました。」

(室)

「これを『野釣り伏せ陣(小部隊を囮にして大友軍を釣り出し、逆包囲する)』と呼んで島津軍は自慢していたそうだが、私はそうは思わぬ。田北鎮周は味方の士気の低さを、佐伯宗天は味方のまとまりの悪さを嘆いて最初から死を覚悟して無謀な突撃を敢行したのだと思うぞ。」

(湛)

「結局、先鋒に続いて後続部隊が壊滅したことで大友宗麟殿は無鹿の本営を引き払って命からがら豊後へ逃げ帰りました。」

(室)

「残念だが、自ら陣頭指揮に立った島津殿と、後方で理想郷の計画にふけっていた宗麟殿の意気込みの違いが戦いの勝敗を決したことになるな。」

(湛)

「商いも戦も人任せはダメですよね。」

(室)

「そうとばかりも言い切れぬ。大友家の場合には、たとえ当主の宗麟殿が不在でも支障がないほどに優秀な将校・官僚団が揃っていた。当主自らが指揮を執らなくても家中が運用出来るというのは、統治システムとして非常に優秀であったと言えるな。」

(湛)

「しかし、大友家はその優秀な統治機構が仇となって耳川で決定的な敗戦を演じてしまった・・・・。」

(室)

「物事というのは何でも完璧主義ではなく、程々を目指すべきなのかも知れぬな・・・・。」

(湛)

「そう、ボクのように!」

(室)

「お前は程々働いているだけの割に稼ぎ過ぎじゃ!もう少し汗水を流せ!」

(湛)

「・・・・。」

[続く]

知られざる博多の大仏?と黒田家の菩提寺!

2010 年 5 月 13 日

(湛)

「本日は以前に『本能寺の変』の項でもお話しした、叔父さんが本能寺からかっぱらった弘法大師空海直筆『千字文』が収蔵されている大博通り沿いの東長寺を見学しませんか?」

(室)

「待てい!いつ私が『かっぱらい』をしでかしたのだ?あくまでも貴重な文化財が焼けるのが惜しかったから持ち出したと言うておろうが!」

(湛)

「叔父さん、冗談ですよ!まあまあ、どうどう!」

(室)

「全く冗談が過ぎるわ。それで、お前は東長寺へ行って再び私を皆様の前で『かっぱらい』呼ばわりしようとでも言うのか?」

(湛)

「そうではありませんよ。我々が黒田殿からこのお役目を引継いで間もない頃、重要文化財である聖福寺と、私の起居する妙楽寺には皆様をご案内しましたが、両寺院のすぐ傍にある東長寺はご案内しておりませんでした。それが多少心残りだったもので・・・・。」

(室)

「ほほう?それは良い考えだ。早速行くとしよう。」

  • * *

(湛)

「皆様に分かり易いようにご案内すると、エンクレスト御供所から大博通り沿いに博多駅方向へ向かうと、山門や鐘楼が見えてくるのが東長寺です。」

(室)

「通り沿いからもかなり目立つ伽藍じゃのう。」

(湛)

「早速、お邪魔しま~す。あれ?叔父さん一大事ですよ!」

(室)

「どうした?」

(湛)

「福岡大仏!全高16メートルだって!ご存知でした?」

(室)

「ナヌ?それは初耳だ。全高16メートルであれば、奈良の大仏の全高約15メートルを凌ぐ高さではないか!早速拝ませて頂こう。2階が入口らしいな。」

(湛)

「撮影禁止らしいから、デジカメはしまっとこ。」

(室)

「おお、何と荘厳な仏様じゃ!まるで今にも動きそうじゃ。」

(湛)

「奈良の大仏様は土の御体に表面を銅(本来はその上に金箔)で作られていますが、こちらの福岡大仏はほとんど木製のようですね。」

(室)

「なになに・・・・。地獄体験じゃと?」

(湛)

「仏様の台座の袖から入るようですよ。中では御説法のテープが流れているみたいですね。行きましょう!」

(室)

「こらこら、暗いから押すな!」

(湛)

「そ、そんなこと言ったって!」

(室)

「(数分後・・・・)あいた~っ!」

(湛)

「ごめんなさい!」

(室)

「こともあろうに、叔父である私を突き飛ばすとは・・・・。お前とは二度と暗闇には入らぬわ!」

(湛)

「反省しております・・・・。」

(室)

「気を取り直して久しぶりに『千字文』を見て帰るか?」

(湛)

「やや!叔父さん、宝物館は閉鎖になっていて見学は出来ないそうです。」

(室)

「ガーン!それは淋しい・・・・。」

(湛)

「まあまあ、叔父さんもそう落ち込まずに。境内には他にも素晴らしい見所が沢山ありますよ。」

  • * *

(室)

「この東長寺は、そもそも空海(弘法大師)が中国大陸にて密教を学んで帰国した際に開いた由緒ある寺院で、現在でも九州における真言宗の拠点となっているそうな。」

(湛)

「そうですね。その後、戦乱等で荒廃し、2代福岡藩主黒田忠之公(初代福岡藩主・黒田長政の長男)の時代に黒田家の支援を得て復興されました。」

(室)

「それで黒田忠之公の墓が境内にあるのか・・・・。」

(湛)

「はい。父祖の黒田如水様・黒田長政様等は県庁近くの崇福寺にあるのですが・・・・。忠之公は東長寺に余程強い思い入れがあったのでしょう。」

(室)

「そして、これが本堂というわけか・・・・。勿論創建当時の建物ではないが、いかにも創建当時を偲ばせる大陸の影響を強く受けた雰囲気を醸し出しているな。」

(湛)

「というと?」

(室)

「例えば、京都の平安神宮は平安京大極殿(重要儀式などが行われた宮殿の建物)を模しているのだが、私自身はあの大極殿によく似た荘厳なデザインだと思うのだが?」

(湛)

「確かに云われてみれば、平安時代初期の薫りがしますね。」

(室)

「さて、本堂はこれくらいにして・・・・。六角堂かな?」

(湛)

「こちらは江戸時代に建てられたものですが、聖福寺の住職として有名な仙厓和尚等、当時の著名人の書画が収納されています。」

(室)

「一度に沢山参拝出来るように六角形というのが面白い。」

(湛)

「中におわします仏様は6体ですから、ご利益は6倍ですね。」

(室)

「ハハ、その通りじゃ。しかし、東長寺は厳かだが実に面白いところじゃ。また参拝に来たいものだ。」

(湛)

「そうですね。また一緒に地獄めぐりをやりましょう!」

(室)

「お前とは絶対イヤだ!」

(湛)

「・・・・。」

[続く]

龍造寺氏VS大友氏VS島津氏・・・・九州三国志①

2010 年 4 月 7 日

(湛)

「叔父さん、本日は三国志の話でも皆様にお聞かせしてはいかがでしょう?」

(室)

「おお、少し前に映画でやっていたな!『レッドクリフ』の舞台であろう?」

(湛)

「叔父さんも相変わらず空気が読めませんねぇ~。」

(室)

「ええっ!?」

(湛)

「今日は我々が活躍した博多の町を巡って争った戦国時代九州の群雄達にスポットを当てようという話ですよ・・・・。」

(室)

「なるほど、それは良い考えだ。」

(湛)

「中世の博多は、堺と並ぶ日本の国際貿易港の双璧であり、まさに九州の真珠。」

(室)

「そして、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて九州各地の武士団は力をつけ、後には天皇や幕府の威令にも逆らうほどの勢力を誇るようになっていった。」

(湛)

「それらの勢力がやがて、九州三国志の源流となったわけですね。」

~九州最強のキリシタン大名・大友宗麟~

(室)

「うむ。まずは、豊後国(大分県)の大友氏。もともと大友氏は鎌倉時代に守護として九州に赴任し、そのまま鎌倉時代・室町時代を通じて豊後国守護大名として君臨した家系だ。初代の大友能直公は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の子であるとも云われる九州の名門でもある。」

(湛)

「とはいえ、室町時代以降の大友氏は冬の時代が続いたとか?」

(室)

「そうじゃな。特に、中国地方の雄・大内氏は大友氏の弱体化を狙って様々な権謀術数を仕掛け、大友氏は何度も分裂・弱体化の憂き目に遭ってしまったのだ。しかし、第19代大友義長・第20代大友義鑑の時代になると、大友氏は戦国大名としての地位を確立して九州最大の勢力を誇るようになった。」

(湛)

「特に、第21代当主である大友義鎮(1530~1587年。法名の大友宗麟が有名)殿の時代になると、隣接する豊前国(北九州市を含む福岡県東部)・筑前国(福岡市を含む福岡県西部)・筑後国(福岡県南部)・肥前国(佐賀県・長崎県)にも進出して九州最強の戦国大名となりました。また、博多の町を勢力下に置いたことから、博多商人、特に宗室叔父さんとは非常に親しい間柄でした。」

(室)

「それだけではない。大友宗麟殿の前半生は武運にも恵まれ、やはり鎌倉時代以来、代々肥後国守護を務めた菊池氏を滅ぼし、先の大内氏の地盤を引継いだ名将・毛利元就(1497~1571年。『三矢の教訓』で有名な中国地方の戦国大名)殿と豊前国・門司城、筑前国・立花城(博多を護る要の城)を巡って戦って善戦し、大友氏の最盛期を築いた。更に、居城のある府内・臼杵では大々的な南蛮貿易を行い、カトリック宣教師を招いて自らも改宗する等、極めて開明的な戦国大名でもあったのじゃ。」

~無敵の薩摩隼人を率いる島津貴久・義久~

(湛)

「次は薩摩隼人を率いる島津氏ですね。」

(室)

「大友氏もそうであったが、島津氏の初代・島津忠久公も源頼朝公の子であるとも云われている。」

(湛)

「島津氏もやはり鎌倉時代に東国から下向した『下り衆』だといわれていますね。」

(室)

「そして、大友氏と同じように鎌倉時代以降代々薩摩国(鹿児島県西部)守護を務め、その勢力は隣国の大隈国(鹿児島県東部)・日向国(宮崎県)に及ぶ大大名となった。しかし、室町時代後期には島津本家と各分家、更には地元豪族との対立から弱体化した。」

(湛)

「その中で、一族の島津貴久(1514~1571年)殿が内紛を制して島津本家を継ぐと、島津家は急速に結束し、本国・薩摩の統一を果たして鹿児島に内城を築きました。」

(室)

「島津貴久殿の子、島津義久(1533~1611年)殿の代になると、大隅国の肝付氏・日向国の伊東氏・肥後国南部の相良氏等の有力氏族や守護大名を降して大友氏や龍造寺氏とも勢力圏を接するようになったのじゃ。」

~「肥前の熊」と畏れられた龍造寺隆信~

(湛)

「大友・島津の両家は守護大名として代々各国を治めてきた家柄ですが、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信(1529~1584年)殿のプロファイルはいかにも戦国時代らしい波乱に満ちています。」

(室)

「鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとったのが少弐資能公。その子孫は代々筑前国大宰府、後には肥前国東部を拠点として九州北部を支配したが、その家老格の家柄にあったのが肥前国佐賀の龍造寺氏じゃ。」

(湛)

「では、龍造寺氏は結果的に主君・少弐氏を倒して戦国大名の道を歩んだわけですね。」

(室)

「まあ、色々な紆余曲折があったのであろうが、結局はそうなるな。」

(湛)

「いかにも戦国時代らしい大名家ですね。」

(室)

「しかし、龍造寺隆信殿とて最初から『肥前の熊』と畏れられていたのではないぞ。彼は家督相続直後に一度城を追われ、その後は二度にわたって大友宗麟殿の侵攻を受けて滅亡の瀬戸際に追い込まれたこともある。」

(湛)

「特に二度目の戦いでは、大友軍は6万とも8万ともいわれる大軍勢を繰り出し、龍造寺氏の居城・佐嘉水ヶ江城を半年以上包囲しました。しかし、後の佐賀藩祖・鍋島直茂殿の活躍で今山の合戦に龍造寺軍は大勝利し、肥前国での優位は揺るがぬものとなったのです。」

(室)

「その後は破竹の進撃を続け、弱体化した大友氏の筑前国・筑後国・肥後国等に攻め入り、『九州五ヶ国二島の太守』と渾名されるようになったのだ。」

(湛)

「『肥前の熊』と畏れられるようになったのもこの頃ですね。」

(室)

「当時の耶蘇会(カトリックのイエズス会)の宣教師フロイス殿は、『(龍造寺隆信の)配慮と決断、カエサルに似たり!』と評しておられるとか・・・・。」

(湛)

「古代ローマ最高の英傑といわれるカエサルに喩えられる戦国武将は滅多にいませんよ。確かに龍造寺殿の『配慮と決断』力は群を抜いていたのでしょうね・・・・。では、次回は皆様に大友宗麟・島津義久・龍造寺隆信の九州三強の激闘についてお話しましょう。シーユーネクストアゲイン!」

(室)

「そのノリはやめい!」

[続く]

大博通り・・・・豊臣秀吉と太閤町割り

2010 年 3 月 1 日

(室)

「さて、今日は引続き大博通りを歩くか・・・・。大博通りは、我等博多商人と豊臣秀吉公、即ち太閤殿下が協力して行った博多復興事業『太閤町割り』に由来するものじゃな。」

(湛)

「はい。1587年に太閤殿下が薩摩国の島津氏を従えると、九州の戦国時代は終わりを告げました。そこで、経済を重視する太閤殿下が真っ先に取り組まれたのが、戦火を蒙った博多の復興だったわけです。」

(室)

「太閤殿下は、博多を堺と並ぶ自治都市として引続き公認し、商業の更なる振興を望まれていたが、一方で後の朝鮮半島出兵を踏まえて、博多を復興して兵站基地として整備し、有事には我等博多商人にも協力させようという腹積もりであったのかも知れぬな。」

(湛)

「そうですね。現在の大博通りを『一小路(市小路とも)』として区割りの基点とし、町全体を袈裟に例えて七つに分け、『流』と称しました。皆様もご存知の様に、この『流』という名称は現在の博多山笠にも受け継がれています。」

(室)

「それにしても、大博通りは福岡市随一の大通り。名前の由来である『大きな博多の通り』というのも肯ける。」

(湛)

「良くご存知で!」

(室)

「ここは、地下鉄祇園駅の入口か?」

(湛)

「はい。余談ですが、現在急ピッチで駅ビルの工事が行われている博多駅ですが、現在の場所に移転したのは昭和38年12月のことであり、建物としては3代目なんです。」

(室)

「ほう、それは初耳だ。」

(湛)

「現在のJR鹿児島本線は、もともと明治時代に私鉄の『九州鉄道』として開業した路線であり、初代と2代目の博多駅は現在の地下鉄祇園駅付近に置かれていたんですよ。」

(室)

「では、かつては大博通りの真ん中に博多駅がそびえていたわけだ。今では面影もないな・・・・。」

(湛)

「初代の駅舎は現在のJR直方駅(旧JR吉塚駅とも)の駅舎として移築されたと伝わっています。2代目の駅舎も保存が検討されましたが、結局解体されたそうです。」

(室)

「なるほど。大博通りを知れば、博多の町の移り変わりを知ることが出来るということじゃな。」

(湛)

「そうなんです。博多区役所や博多警察署は、旧博多駅があった地下鉄祇園駅から程近い場所にありますし、大博通り北端にはマリンメッセ福岡・福岡サンパレス・国際会議場等の大型施設が立ち並んでいます。大博通りは現在でも博多の重要な一角なのです。」

(室)

「『エンクレスト大博通り』もちゃんとあるしな・・・・。」

(湛)

「叔父さん、上手いこと言いますね!次はボクが住んでいた奈良屋町に行きましょう。」

  • * *

(室)

「確かここには宗湛の屋敷があったはず・・・・。ありゃ、博多小学校?」

(湛)

「そうです。かつてのボクの屋敷は博多小学校になって、未来を担う博多っ子が勉学に励んでいます。」

(室)

「我々の時代と同じように、この博多から世界へ飛翔する人材が登場すると良いな・・・・。」

(湛)

「そうですね・・・・。」

(室)

「大博通りと反対側の入口に回ると・・・・。おや、今度は神社があるぞ?」

(湛)

「これは、太閤殿下を祀る豊国神社です。太閤殿下はボク達博多の人間にとっては、町の復興を手援けしてくれた大恩人。朝鮮半島への出兵の件では、叔父さんと衝突した(島井宗室は交易相手国への出兵に反対した)こともありましたけど・・・・。博多復興事業の成果は、何物にも代えがたいと思い、屋敷内に神社を建立したわけです・・・・。」

(室)

「宗湛は『太閤晩年の側近』とか、『西軍ひいき』『石田三成と昵懇』とも言われるほどの豊家ひいきじゃからのう・・・・。あの世で太閤様も喜んでおられよう。」

(湛)

「ハハッ、そうですね。今度は現在の蔵本交差点から石堂大橋へ向いましょう。」

  • * *

(湛)

「おや?叔父さんの屋敷も見当たりませんが・・・・。あっ!?郵便ポストの前に石碑がありますね・・・・。島井宗室屋敷跡?」

(室)

「我等の活躍した16世紀から400年以上も経ったのじゃ。宗湛の屋敷同様に、私の屋敷も様変わりしてビルやガソリンスタンド等が建っておるぞ・・・・。私も、かつての敷地周辺にある『エンクレスト中呉服』へ引っ越したのじゃ。」

(湛)

「なーるほど。それは賢い。」

(室)

「セキュリティ万全で、私の大事な茶器も安心・・・・。おまけに博多駅や天神は勿論、歴史豊かな聖福寺や妙楽寺にも近い。エンクレスト中呉服はまさに理想の庵よ!」

(湛)

「この周辺は、『エンクレスト中呉服』『エンクレスト大博通り』『エンクレスト奈良屋』と、エンクレストマンションが充実していますから、お好みに合わせて選んで頂けますね。しっかりした造りのエンクレストマンションなら、叔父さんのイビキで他人様に迷惑をかける心配もないですしね。」

(室)

「だまれえっ!」

[続く]

本能寺の変・・・・あきんどは見た!!!

2010 年 2 月 1 日

(室)

「宗湛よ、今日は我等が遭遇した歴史上最大の事件について皆様にお話しせねばなるまいのう。」

(湛)

「織田信長公が明智光秀殿に討たれた『本能寺の変』ですね!」

(室)

「1582年5月29日、信長公は本拠安土城を出発して京の本能寺へ向われた・・・・。既に博多から京へ上っていた私は、6月1日に信長公秘蔵の名茶器38品を見せて頂く約束をしていた・・・・。」

(湛)

「叔父さんも、国一つと交換できると言われたほどの名物茶器『楢柴』を信長公に献上するつもりで持参していたんですよね?勿論、ビジネスチャンスとばかりにボクも同伴していました。」

(室)

「折りしも、信長公は宿敵武田勝頼を甲斐国・天目山の戦いで滅ぼしたばかり・・・・。信長公が入京すると、公家衆等から次々に戦勝祝いの挨拶が届けられた。」

(湛)

「そして、6月1日運命の前夜・・・・。信長公に謁見した叔父さんとボクは、信長公の長男・織田信忠様や、前関白・近衛前久様と共に茶会に呼ばれ、その後は囲碁の対局、酒宴へと夜は更けていきました。」

(室)

「そういえば、いつの間にか信忠様は妙覚寺へ、近衛卿は自邸へ、それぞれ引き揚げられていたようじゃな。」

(湛)

「やがて、我等も寝所へ引き揚げました。しかし、時を同じくして丹波国(京都府)亀山城では歴史を塗り替える大謀略の歯車が静かに回り始めていました。」

(室)

「6月1日、織田軍団の丹波方面軍司令官というべき明智光秀殿は明智秀満・斉藤利三等の側近と相談の上、信長公を討つ決意を固め、約12,000名の兵を率いて丹波亀山城を出陣。『敵は本能寺にあり!』とばかりに丹波国・山城国の境である老ノ坂を超え、京をめざしていた・・・・。そして、明くる6月2日未明、桂川を渡って京の洛中(中心部)に攻め込んだ明智軍は本能寺を取り囲んだのじゃ。」

(湛)

「あの日のことは今でもハッキリ覚えています。時刻は卯の刻(午前6時前後)、ボクは叔父さんのイビキが煩くて一晩中眠れずにいました・・・・。」

(室)

「関係ないことは黙っとれ!」

(湛)

「まあまあ・・・・。無数の足音と、軍勢の鬨(とき)の声でふっと我に帰ったボクは、叔父さんを叩き起こしました。」

(室)

「ふむ、宗湛に起こされた私は様子を見るために部屋を出た我等は、信長公の家来衆より『明智殿が謀反して攻め寄せて来たので、安全の為に本能寺を退去して頂きたい』と申し渡された。」

(湛)

「とりあえず、叔父さんとボクは身の回りの物を持って避難することにした訳です。叔父さんは気が動転して、名器・楢柴を危うく忘れていくところでしたよね・・・・。」

(室)

「あの時、宗湛が『叔父さん、楢柴は?』と声を掛けてくれなかったら、楢柴は歴史から消えていたかも知れぬ。助かったぞ。」

(湛)

「いえいえ・・・・。」

(室)

「しかし、信長公に従う家来衆はどう見ても100名余り。恐らく数千の明智軍に対しては余りにも多勢に無勢。やがて建物には火の手が回り、私と宗湛は出口を探して広大な敷地を彷徨った・・・・。」

(湛)

「そして、まさにその時!ボク達は無造作に置かれた2本の掛け軸に目を留めました。」

(室)

「燃え盛る炎の中で、弘法大師(空海)直筆の『千字文』と牧谿作の『遠浦帰帆図』を見つけた私と宗湛はこれ等の逸品をとっさの機転で持ち出した・・・・。人よ、我等を火事場泥棒と思うなかれ。私は、天下の名品が灰になるのを見過ごすことが出来なかったのだ・・・・。」

(湛)

「何を詩人みたいに呟いているんです・・・・。皆さんは叔父さんががめついから火事場泥棒をやったとしか思っていませんよ!」

(室)

「えっ・・・・?」

(湛)

「その後、信長公は自ら、弓・槍を取って戦われましたが、近習は殆ど討ち取られ、やがて燃え盛る本能寺の奥に籠って自ら命を絶たれたそうです。しかし、信長公の亡骸は結局見つからず、明智殿が謀反した理由と共に永遠の謎となりました。」

(室)

「それは不可解な!」

(湛)

「確かに。更に、明智軍は本能寺で信長公を襲撃するだけでなく、織田信忠様も前後して襲撃する手はずを整えていました。信長公だけでなく、その後継者まで抹殺しておかなければ謀反は成功しないという、智将・明智殿らしい周到な方法でした。」

(室)

「妙覚寺で本能寺炎上の報を受けた信忠様は、『すぐさま京都を脱出して再起を図るべき』との家臣の進言を、『これ程周到な準備を進めている敵ならば、帰路の街道筋も既に封鎖されているはず』として退け、二条城に籠城された・・・・。」

(湛)

「信忠様が『すぐさま京都を脱出』という選択をしていれば、歴史は変わっていたかも知れませんね・・・・。」

(室)

「しかし、信忠様に従う手勢はわずか500騎程・・・・。二条城に殺到した明智軍の前に、信忠様も力尽きて自害された。」

(湛)

「こうして、戦国の覇者・織田軍団は一夜にして、そのカリスマ的指導者と後継者を一夜にして失い、権威の象徴・安土城も数日後には焼け落ちてしまったのです。あれから四百数十年・・・・。現在、叔父さんが持ち帰った『千字文』は博多区の東長寺に、ボクが持ち帰った『遠浦帰帆図』は東京の国立博物館にそれぞれ収蔵されています。」

(室)

「結局、日本史上最大の事件を目の当たりにしながら、ほうほうの体で本能寺を脱出しただけに終わってしまったか・・・・。」

(湛)

「因みに、中国方面の織田軍団の司令官であった羽柴秀吉殿が『本能寺の変』の一部始終を知って、軍勢を京都へ急反転させたのは、それから10日余り後のことです。」

(室)

「そして、この羽柴秀吉殿は、後に『豊臣秀吉』と名乗り、我等博多商人とも深く係わられることになるのですが、それはまた後日・・・・。」

(湛)

「次回は、久しぶりに博多の町を歩きましょう。」

 [続く]

御供所町・・・・「禅」と「茶」の発祥地である聖福寺+α

2010 年 1 月 9 日

(室)

「確かここは聖福寺のはず・・・・。いつの間にこんなに瀟洒でハイカラな建物に変わったんじゃ?」

(湛)

「イヤだなあ!ここはエンクレスト御供所ですよ!このマンションの裏手が聖福寺・・・・。知ってるくせに・・・・。叔父さんのボケは相変わらず寒いな~。そんなにクサいリアクションじゃ、突っ込む気にもなれませんよ・・・・。」

(室)

「うぐ・・・・。」

(湛)

「叔父さん、そんなことで落ち込まないで下さいよ。さあ、着きました。皆様、ここが聖福寺ですよ。」

(室)

「コホン・・・・。聖福寺は1195年に創建され、臨済宗の開祖である栄西禅師が初めて我国へ『禅』を持ち込んだ由緒ある寺院でございます。」

(湛)

「栄西禅師は、もともと天台宗の総本山・延暦寺の優れた僧でしたが、後に中国大陸へ渡航して禅宗の教義に触れ、臨済宗の開祖となります。」

(室)

「栄西禅師の布教は博多・京都・鎌倉等を中心に行われたが、新興教義にありがちな他派排斥を唱える攻撃的なものではなく、仏教再興と既存教義との調和を旨とする穏やかなものだったそうじゃ。」

(湛)

「調和と円満。商取引の鉄則と同じですな。」

(室)

「ところが、結局栄西禅師は天台宗から排斥されてしまったそうな。」

(湛)

「あらま。やっぱり教義の世界は商いよりも厳しい・・・・。」

(室)

「だが、栄西禅師はその穏やかな性格故か、朝廷や鎌倉幕府の厚い保護を受けることになり、後には京都五山の建仁寺を鎌倉幕府の支援で建立されたのだ。」

(湛)

「この聖福寺にしても、後鳥羽天皇から『扶桑最初禅窟』の額を賜り、これは現在でも寺の山門に置かれています。」

(室)

「宗湛よ、少し歩くか?」

(湛)

「は~い。門はこっちかな?お邪魔しま~す。」

(室)

「こらこら!門の名称を確かめよ!」

(湛)

「勅使門!?勅使というと、帝(天皇)のお言葉を伝える為の尊い使者のこと・・・・。ひぇ~っ!申し訳ございません。」

(室)

「不敬罪で危うく死罪になるところであったわ!しかし、勅使門までが用意されておるとは、さすがに『扶桑最初禅窟』よのう。」

(湛)

「では、こちらの通用口から・・・・。」

(室)

「それで良い。おお、これが山門か!」

(湛)

「後鳥羽天皇より賜った額は、この山門に掲げられているのですね。」

(室)

「山門を抜けて、こちらが仏殿・・・・。ほう、これはこれは大きな仏様が安置されておる。なんと、黄金色に輝く見事な仏様じゃ!奈良や京都以外でこれ程見事な仏像を拝めるとは・・・・。」

(湛)

「本当ですね!叔父さん・・・・。しかし、聖福寺は我国初の禅寺というだけではありません。実は、我国に初めてお茶を持ち込んだのも栄西禅師なのです。そして、この聖福寺で初めて茶の栽培が行われたと言い伝えられています。」

(室)

「栄西禅師は脊振山等でも茶の栽培を行い、茶の普及に努めたそうじゃ。」

(湛)

「いやあ、聖福寺は本当に『初』尽くしの由緒あるお寺ですね。」

(室)

「皆様が博多に来られた折には是非足を運んで頂きたい寺じゃ。」

(湛)

「そういう話であれば、少し先の妙楽寺も是非ご案内致しましょう。」

(室)

「妙楽寺?」

(湛)

「妙楽寺も1316年創建の古い寺院です。中世には大陸との貿易を盛んに行っており、明国への使節団も宿泊する等、当時は対外交易の一大拠点となっていたそうです。さあさあ、こちらですよ・・・・。」

(室)

「ほう、黒田家の夭折したご子息の墓がある・・・・。ここも由緒あるお寺のようじゃな。何じゃ、これは?『神屋宗湛居士・・・・』じゃと?ぬぬっ!これはお前の今の住まいではないか!」

(湛)

「いやあ、最近は訪れてくださる方も少なくて・・・・。ついつい公私混同してしまいました。私、博多の栄光と共に生きた神屋宗湛はこの妙楽寺に起居しておりますぞ!是非遊びに来てください!茶飲み仲間も募集中です!」

(室)

「これ、いい加減似せぬか!」

[続く]

~「あきんど」が語る商都・博多 編~

2010 年 1 月 9 日

(室)

「あけましておめでとうございます。私は島井宗室。博多を中心に貿易業や土倉・酒屋を営んでおります。趣味は茶の湯を少々。黒田如水様のご推挙で皆様の案内役を引受けさせて頂きました。そして、横にいるのは神屋宗湛。私とは遠戚に当たる博多商人であり、私と同じく茶を嗜む数寄者でございます。」

(湛)

「叔父さんは相変わらずカタいなぁ。そんな硬い言い方では皆様に意味が伝わりませんよ。改めまして、ボクは神屋宗湛です。皆様、あけましておめでとうございます。因みに叔父が言った『土倉・酒屋』というのは、平たく言えば金融業者のことなんです。それに、ボクや叔父の茶の湯は趣味と言っても、茶の点前は博多一と言っても過言じゃありません。本当は『日本一』と名乗りたいとこなんだけど、堺商人の津田宗及殿や千宗易殿には茶の点前ではかないませんもので・・・・。」

(室)

「軽々しく博多一などと言うでない!叔父として自分は恥ずかしい!」

(湛)

「この通り、堅い性格の叔父と軽い性格のボクで進めます故、至らぬ部分がありましたら、ご容赦下さいますよう・・・・。」

(室)

「オイシイ部分だけ持っていくな!」

(湛)

「まあまあ・・・・。では、とりあえず今の御世を博多駅から大博通りを北西へ歩くことに致しましょう。」

西公園・・・・黒田父子が祀られる光雲神社

2009 年 12 月 16 日

(父)

「ふぅ~っ・・・・。今日は光雲神社への出勤日。足腰が冷えるから、師走は朝が辛いのう。」

(子)

「しかし、父上・・・・。せっかく福岡の皆様が我等父子を西公園の光雲神社に祀ってくれているのです。寒さに愚痴を言わずにさっさと出発致しましょう。」

(又)

「これは珍しい・・・・。大殿が殿に諭されるとは・・・・。」

(多)

「全くだワイ。つくづく殿は立派になられた。最近では初代福岡藩主として、何かこう、貫禄が付いてこられたような・・・・。いやあ、大殿や又兵衛が歳をとるはずじゃワイ・・・・。」

(父・又)

「・・・・それはお互い様!」

(多)

「それにしても大殿は楽で良いではござらぬか?拙者と又兵衛がしっかり輿を担いでおります故・・・・。足腰が冷えるなどとは贅沢でござる」

(父)

「むむ?それにしても崇福寺(黒田家の墓所)から、光雲神社のある西公園まで遠いのう。ただ無駄話を続けても皆様に申し訳ない。長政が光雲神社の由来でもお聞かせしてはどうじゃな?」

(子)

「それは良いお考えで。では早速・・・・。そもそも光雲神社の起こりは黒田藩の藩祖である父上と、初代藩主である私を福岡城内に祀ったのが最初だと聞いておりまする。」

(多)

「何故それが西公園に移ったのでござる?」

(又)

「江戸時代の西公園は荒津山と呼ばれ、日光東照宮に因んで家康公を祀る東照宮があったそうでございます。まぁ、徳川家への忠節ぶりをアピールする為でしょうな。」

(子)

「ところが、明治維新で徳川幕府が倒れると、参拝客は絶えて荒津山は荒れ放題。そこで、廃藩置県で黒田家が福岡を離れる際に、父上と私を福岡城内から遷し、改めて荒津山に祀るように福岡の皆様が運動してくれたのです。」

(又)

「因みに光雲神社とは、大殿の称号『龍光院』の『光』、それと殿の称号『興雲院』の『雲』をそれぞれ組み合わせた名称ですぞ!」

(多)

「そうこう言っているうちに、着きましたワイ。」

*             *

(子)

「おや?茶席の用意がしてあるぞ・・・・?」

(父)

「随分立派な道具じゃな。さてはワシが来るのを見越してわざわざ・・・・。いやあ、人気者は辛いのう。」

(多)

「炭火も起こしてある。こりゃ有難いでござるな。」

(又)

「しかし、茶を点ててくれる亭主がおりませぬぞ。」

(多)

「だれもおらぬのであれば、それがしが茶を点て申そう。一度茶席の亭主というのをやってみたかったのでござる。どれどれ湯も煮えたぎっておる・・・・。エイヤッ!これが大殿の分。これが殿の分。これが又兵衛の分」

(子)

「あっちぃ~!」

(父)

「ワシのは濃すぎて気分が悪くなりそうじゃ!誰か水を・・・・。」

(又)

「多兵衛殿、そもそも茶席では一人ずつ茶碗を回すものですぞ。」

(多)

「面目ない・・・・。」

(子)

「又兵衛よ、父上はお茶にうるさいお方。誰か名手を呼んできてくれ。そうでないと父上の機嫌が悪くなる。」

(又)

「心得ました!」

(父)

「頼むぞ!」

*             *

(又)

「素晴らしい名手をお連れ致しました。博多を代表する豪商、今風に言うと大実業家にして茶人、即ちアーティストである島井宗室殿と神屋宗湛殿でございます。」

(CAST)

島井宗室・・・・1539~1615年。戦国~安土桃山時代の博多商人でも特に有名な『博多三商傑』の一人。茶人としても知られ、茶の湯を大成した千宗易(利休)とは茶人としても、同業者(貿易商)としても親交が深かった。豊後国(大分県)の戦国大名・大友義鎮(宗麟)と親しく交わり、義鎮の勢力拡大に伴って様々な営業特権を与えられた。九州を巡る三つ巴の決戦で義鎮が島津義久に敗れたことから脅威を感じ、織田信長、次いで豊臣秀吉と通じる。後に秀吉の天下統一・朝鮮出兵に協力し、文字通り『天下人の御用商人』となり、黒田長政の福岡城築城にも協力した。以下、(室)と表記。

神屋宗湛・・・・1551~1635年。安土桃山時代~江戸時代初期の博多商人。島井宗室と同じく『博多三商傑』の一人。中世博多商人の極盛期を開いた人物であり、島井宗室とは遠戚にあたるとも言われる。島井宗室と同じく茶人としても知られる。千宗易の先輩格にあたる堺の豪商・茶人である津田宗及と親交を結ぶ。博多商人の指導者的立場にあって、博多の復興・朝鮮征伐軍への補給等を取り仕切り、豊臣秀吉を支える側近の一人となる。以下(湛)と表記。因みに、ここでは宗湛は宗室を『叔父さん』と呼んでいる。

(室)

「これはこれは黒田様、お久しぶりでございます。」

(父)

「まったくじゃ。宗室殿も変わりなく。」

(子)

「宗湛殿も相変わらず商売繁盛で何よりだな。」

(湛)

「皆様のお陰でございます。」

(又)

「それで、先程お願いした件なのですが・・・・。」

(室)

「よろしい。私が皆様に茶を一服点てて進ぜましょう。宗湛も皆様とご一緒してはどうかな?」

(湛)

「はい、叔父さん。」

*             *

(父・子・又)

「美味い。生き返るようだ!先程の茶とはまるで違う。」

(多)

「そうでござるか?それがしが点てた茶とあまり味は変わらぬような・・・・。」

(父・子・又)

「全然違う!」

(多)

「ぐすん・・・・。一生懸命やったのに・・・・。」

(室)

「これこれ、茶会は参加するものの精神のふれあいこそ肝要。味や作法も大切ですが、茶を点て

てくれた者への感謝も大事ですぞ!」

(父)

「そうじゃな。多兵衛よ、すまなかった・・・・。ところで、宗室殿達に頼みたいことがある。」

(湛)

「黒田様が私と叔父さんに頼みごと?はて、何でございましょう?」

(子)

「実は、此度のお役目で福岡の町を読者の皆様へご案内するのは今回でお休みし、次回以降は博

多の町を紹介せねばならないのだが、その大役を引受けてくれないだろうか?」

(室)

「そのような大役を我等に?」

(父)

「うむ。色々考えたのだが、福岡の町は長政をはじめとする黒田藩が中心になって築いた武家町。

しかし、博多は一にも二にも博多商人の町。付け焼刃の我等が紹介するよりも御両名の方が適

役では、と考えてな。」

(子)

「しかも、我が家中には多兵衛や又兵衛のような粗暴な者が多い。博多に残る貴重な工芸品や寺

社仏閣を案内中に万が一壊されては天下の損失。」

(又)

「粗暴という点では殿も我等と変わらぬような・・・・。」

(子)

「黙っとれ!」

(父)

「宗室殿と宗湛殿が案内役の方が皆様も喜ばれると思うのだが、どうであろう?」

(湛)

「黒田様もこう仰っているし、お引受けしましょう、叔父さん!」

(室)

「分かりました。その大役、お引受け致しましょう。」

(子)

「かたじけない。」

(父)

「宜しくお願いしますぞ。」

(又)

「おお、茶会の最中に雪が降り始めましたぞ。何と雅な!」

(父)

「本当じゃのう・・・・。」

(子)

「父上、次は梅の時期にでも再び茶会を催しましょう。」

(多)

「その時こそは、それがしが再び美味い茶を点て申そう。」

(一同)

「・・・・(当惑の表情)。」

[続く]

飯田覚兵衛屋敷跡・・・・加藤清正を演出した男の魂が宿る大銀杏

2009 年 11 月 30 日

(子)

「父上、今日は中央区大名にある日本たばこ産業株式会社へ参りましょう。」

(父)

「長政よ、今ワシは小銭もタスポも持ち合わせておらぬし・・・・。第一、禁煙中じゃぞ・・・・。」

(子)

「父上のタバコを自販機に買いに行くのではありませんぞ・・・・。ある一廉の武将に縁のある場所を訪ねようとしておるのです。」

(父)

「何じゃ、改まった顔をして・・・・。しかし、その一廉の武将は日本たばこ産業株式会社の近くに居を構えるほどのヘビースモーカーなのか?困った奴じゃのう・・・・。」

(子)

「・・・・。父上、ここで問題でございます。隣国である肥後国(熊本県)の大名・加藤清正の家中において、我が黒田家の母里太兵衛・後藤又兵衛等に相当する重臣は誰でございましょう?」

(父)

「むむ?それはやはり、朝鮮での戦いで晋州城一番乗りを果たした『飯田覚兵衛』こと飯田直景であろうな。清正自身も優秀な武将だが、清正を支えた飯田覚兵衛もまた一廉の人物であったろうと思うぞ。先ほどの晋州城攻めでは我が家中の後藤又兵衛と一番乗りを争うほどの勇猛な人物であるし、熊本城は勿論、江戸城・名古屋城の築城にも参加し、清正同様に築城に明るい人物としても知られておるのじゃ。」

(子)

「さすがは父上。正解でございます。父上が仰るように、飯田覚兵衛は知勇兼備の名将であり、竹馬の友『森本儀太夫』と共に清正の両腕として知られております・・・・。実は、中央区大名の日本たばこ産業株式会社は飯田覚兵衛の屋敷跡なのです。」

(父)

「ほう・・・・。もともと、加藤清正・飯田覚兵衛・森本儀太夫の三名は主従関係というよりは幼馴染の間柄。幼少の頃、村相撲で勝った加藤清正に、負けた飯田覚兵衛・森本儀太夫両名が終生仕える約束をしていたそうじゃ。」

(子)

「随分お詳しいですな。」

(父)

「実は、故・司馬遼太郎の短編小説『覚兵衛物語』を読んだんじゃよ・・・・。」

(子)

「道理で・・・・。」

(父)

「この小説では本当は武士ではなく、歌人として風雅の道に憧れていた飯田覚兵衛が、幼時の契りに縛られて武士になったところ、人も羨むほどの予想外の成功を収めてしまい、不本意ながら家老として加藤家を支え続けたという筋書きになっている・・・・。」

(子)

「成程・・・・。」

(父)

「しかし、清正の死後、後を継いだ子の加藤忠広が余りにも愚かな主君であった為、『自分の人生とは何だったのだろう。清正との義理など捨てて歌人に成っておけば良かった。』と悔やみながら飯田覚兵衛は加藤家を去ったそうじゃ。」

(子)

「確かに・・・・。覚兵衛が加藤家を去るのと相前後して加藤家は取り潰しになっております。」

(父)

「結局は、『覚兵衛物語』にあるように飯田覚兵衛あっての加藤家であり、名将・加藤清正を世に演出したのは覚兵衛だったのじゃな。だからこそ、覚兵衛が去ると同時に加藤家は滅び去ったのであろう・・・・。しかし、何故清正の懐刀の屋敷が福岡にあるのじゃ?」

(子)

「はっ。飯田覚兵衛もまた、加藤家中の名士。その名は加藤家の外にも轟いておりました。当然ながら我が黒田家とも親交があり、加藤家を去った覚兵衛は当家の客分としてこの屋敷に滞留し、子孫は代々黒田家の家臣となったのでございます。」

(父)

「ほう・・・・。では、この大銀杏の樹はかつての飯田屋敷の名残という訳じゃな?」

(子)

「はい。この大銀杏の樹は覚兵衛が普請奉行、つまり工事監督者となった熊本城(別名銀杏城とも)から飯田屋敷に移植され、その後は福岡市の手で大切に保護されておりまする。かつて、同じ明治通り沿いには、現在の天神センタービルの場所に、以前紹介した母里太兵衛の屋敷もありまして、戦国の豪傑達の屋敷跡が揃っております。」

(父)

「それは面白い・・・・。しかし・・・・。」

(子)

「何でございます?」

(父)

「加藤清正ほどの武将が起こした家でも、二代目が頼りなければアッという間に滅んでしまう・・・・。」

(子)

「???」

(父)

「そうなると、我が黒田家の二代目のことが心配なんじゃよ・・・・。」

(子)

「父上。皆様の前でその手のネタはいい加減に止めて頂けませんでしょうか?この長政も人並み以上に傷つき易い繊細な心の持ち主なのでございますが・・・・。」

(父)

「・・・・。」

                                    [続く]